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人は、物語のように綺麗には生きられない。
自身の手には一冊の書があり、そこには古びた一枚の写真が挟まっている。
セピア色の写真に写っているのは、自分と家族だった者達だ。
何度も見返したせいで四隅は擦りきれ、しわしわになっている。
五十年という歳月は、世界にとっては一瞬だが、人にとってはそれなりに長い時間だ。
「あの日」の事ははっきりと覚えているのに、面影は薄れ、自分の名を呼ぶ声がどんなだったかも、もう思い出せない。
それは悲しいけれど、どうしようもない事だと、沸き上がる感情を繰り返し胸の奥に押し込めた。
「湊」と名乗る少女を見たとき、本能的に分かった。
「彼女は、自分と同じだ」と。
身につけた衣は、カザフが元いた世界の物に似ていた。恐らく「時代」は違うのだろうが、話を聴いて彼女は自分と同じ世界から来たのだろうと思った。
ここへ来たばかりの頃、カザフは元の世界に戻る事ばかり考えていた。
自分を拾ってくれた砂漠の民からこの世界の事を学び、世界は五つの大陸で出来ていること、中央にある「プルケリマ」にたどり着けるのは、異世界から来た人間だけであること、そこに「全ての場所につながる扉」があることを知った。
そこには番人がいて、訪れた者に問う。
『我が問いに、答えるや否や』
番人は元の世界にあった「人面獣人」の巨大な石像によく似ていた。
番人の問いに、カザフは答えることが出来なかった。
扉は消え、カザフの前に現れることは二度とない。
カザフは本を閉じ、塔の窓から暮れはじめた空を見あげる。
故郷は遠く、記憶は朧気だ。
視線を落とせば、城壁まで放射状に伸びる道が見渡せる。
家々の煙突から立ち上る煙、子供達のはしゃぐ声、立ち話を終えた女性達が笑いながら扉の奥に消えていく。
窓から見える灯りのひとつひとつに、日々の暮らしがあり、代わり映えのしない明日が来ると信じている。
かつての自分がそうであったようにーー
(あの少女は、どんな選択をするのだろう…………)
「カザフ様」
ノックと共に入っていた秘書官に、カザフは瞬きをして主宰の顔を向けた。
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