12人が本棚に入れています
本棚に追加
彼の瞳は私を見ているのだろうか。そんな疑問が数多の水泡のように浮かんでは弾ける。現在の彼の漆黒の瞳には、薄暗いながらも確かに私の姿が映し出されている。だが、彼の思考を読むことなど誰にも出来はしない。以心伝心などと言う言葉があるが、あれもあくまで一部の感覚が似ていると言うだけだろう。私と彼は以心伝心が出来るほど性格も似ていない。ならば、彼の思考を私が読むことなど、出来るはずも無いのだから、彼の視線の先についても考えることを止めた。管楽器の演奏は終わりを告げ、再びピアノの旋律が空間を震わせる。流水のように変わり行く音階と共に、彼の言葉が低音を奏でた。
「それは愛護団体だけじゃなく、宗教、マスコミ、思想家、哲学、教育、学問全てに該当することだと俺は思う。例えば数学。全ての数学は一足す一は二であると言う前提を基にして始まっている。だが、これはあくまでも便宜上誰かが考え出した理想であり思想である常識に過ぎないだろう。だがそれを人々は常識だと疑ってやまないし、大人は子供にそれが常識だと教え込む。もしこの論理が崩れれば、今の数学と言うものは約九割がその解を持たなくなり、現在解明されている数多の公式は必然的に意味を成さなくなるだろう」
彼は暑くなったのか、マスターにノンアルコールの冷たいものを頼む。着ていた黒い上着を一枚脱ぎ、内側を谷折にして丁寧に畳むと、膝の上に置く。白いワイシャツと青いネクタイが、彼の細くもたくましい筋肉の一部をにじませる。内側に内包されていた彼の汗の匂いが私の鼻腔へと届く。とてもたくましく、頼りがいのある人物だと、私は改めて実感した。
「教育もそうだ。何が正しいかなどそれを教える立場の人間が分かっていないと言うのに、指示されたことが、自分が今まで培ってきたことがさも正しいかのように人々に教え込む。それが常識だと教え込み、偽の真理を真実だと教え込ませる教育が、今は蔓延しているだろう。それによって一定の常識が作られ、一定の倫理観が形成されてしまうんだから、恐ろしいよ」
彼はふとその表情を苦痛に歪めたように見えた。だが気のせいだったのか、今見れば、彼は哀愁漂う表情で私の方をじっと見つめているようだった。あくまで見ているようだったという推測形なのは、彼が本当に私の姿を捉えているかなど私には分からないのだから、そう思うことにしているだけ。
最初のコメントを投稿しよう!