60人が本棚に入れています
本棚に追加
時は満ち、準備は整った。
落ちていた木材やらゴミやらを重ねて作った踏み台。いつ崩れてもおかしくないその上に乗り、目の前で揺れる黄褐色の輪を見つめる。
大丈夫。苦しいのはたったの7秒。この苦痛から解き放たれることを考えれば7秒なんてめちゃくちゃ短いじゃないか。そう、自分に言い聞かせた。
でも、現実ってのはそんなに甘いもんじゃなくて、死への恐怖ってのはそんなに生温いもんじゃなくて……漂う輪に掛けた手はガタガタと震えて力なんて一切入らず、臆病な心は実行をためらわせる。
暑いワケではない。けれど何故か汗が一滴、頬を伝い落ちた。
「ふー……」
呼吸が浅く、速くなる。もう何も見えない聴こえない。
代わりに働く触覚。指先が細い繊維の一本一本をも鋭敏に感じ取り、目の前にある死に濃密に触れて──
……一度、台から降りた。
大地に足が着いたとたん、膝から力が抜け、倒れ込むようにその場へ腰を下ろす。
足が、手が、体が、心臓が、大きく激しく震えていた。ガチガチとぶつかり合う奥歯の音が頭の奥深くにまで響き、ノイズのようにその他一切の情報を塗り潰す。
自殺なんてやろうと思えばいつだって出来る。そう思っていた。
けどそれは「そんな機会あるハズがない」と心の奥深くで信じ込んでいたからであって、後戻りの出来ない本当の極限まで追い詰められた自分は、実際、何も出来ずに震えている。
「はは……ダッセェ」
自虐的になったところでどうにもならない。
幹に体を預けて座り、静かに目を閉じた。
四肢に力が入らなくなって数十分。相変わらず、闇は静寂を保っていた。
既に震えは治まり、微かな木々の葉音に耳を傾ける余裕さえ出来た。しかし、いかんせん気力が起きない。立ち上がることすら億劫になり、頭には帰ることばかりが浮かんで来る。
──帰る? 何処に?
帰る場所など既に──。
「……何処にも無いじゃないか」
家は最近失った。そんな俺を泊めてくれるような友人はいない。否、友達なんて作らないようにしていた。必要なかったから。
俺には家族がいた。帰宅する俺を毎日出迎えてくれる母、身を粉にして生活費を稼ぐ父、ムードメーカーである妹、ちょっと太めの弟。
家族がいれば、友人なんていらなかった。幸せな家庭がもたらす暖かさに、俺は満足していた。
最初のコメントを投稿しよう!