プロローグ

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「わからぬ。だが、そうだとすると、ちと困るのぅ」  そう言ってから、まるで自分を嘲笑うように、ふん、と鼻を鳴らすと、母は秋風の香りを嗅ぐように、夜空を見上げた。  娘は、そんな母の横顔を伺いながら、不思議に思った。  なぜ、朧はそんなに泡雪を心配するのだろう。  普段の母からは、泡雪のことを好意的に思っている様子はうかがえない。むしろその逆だ。母がいつも自分に語ったのは、泡雪との死闘の数々だった。たしかに、母の頬には今も消えない切り傷がある。それを刻み込んだモノこそが泡雪であった、と。 『いつか、息の根を止めてやる。今度会ったら、あの首を噛み切って、奴の自慢の尾を引きちぎってやる。いいか、もしもお前が奴に鉢合わせするようなことがあったなら、噛み跡の一つも付けてやるのだぞ』  娘は物心ついたころから、そう言い聞かされたものだった。  だから、娘にはなぜ母がそんな泡雪の身を案じているのか理解できなかったのだ。 「今宵は冷える。中に戻れ」  母が不意にそう言った。彼女は返事をする代わりに母の目をじっと見つめた。  次の瞬間、目にも止まらぬ速さで、母が崖下へと身を投じた。そして、軽やかに、まるでつむじ風そのものとなったかのように、音も無く絶壁を駆け下りると、あっという間に森深き山中にその姿を消してしまった。    その間、彼女が瞬きを数回する程度の時間しか要していないのだが、そんな母親の姿を見慣れているのか、娘はさして驚く様子もなく、再び洞穴へ寝に戻っていった。    それどころか彼女は、暗闇だというのに全てがはっきりと見えているかのような迷いのない足取りで、難なく先ほどまで眠っていた場所に腰を下ろした。そして、同じようにそこで眠る兄弟たちにぴたりと寄り添うようにして横になった。 「朧は?」  すぐ隣の兄が身動きせず、声だけを投げかけてきた。
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