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触れたところが熱を持ったように感じて、私はひそやかなため息をひとつ、夜の道に落とす。それはそのまま、闇に溶けていった。
「体の力を抜いて。記憶を俺に流すような気持ちで、あの夜のことを思い出してみて」
記憶を、流す。この少年の中に。
抽象的な表現に戸惑いながらも、私は事故の記憶を取り出した。
家庭教師のアルバイトからの帰り道、踏み切りで遮断機が上がるのを待っていた私。
私を追い越していった一台の乗用車。種類はわからない。車の名前なんて知らないから。
でも、思い出せる。黒い車体、テールランプの形、光の色さえも。
「そう……もっと、思い出して」
どうして遮断機の中に入れるのだろうと、不思議そうに首をかしげる呑気な私。
左から飛び込んできた電車のライト。
衝撃。
驚愕。
そして震えが襲う。
手のひらを伝う血は鮮やかな赤。かすり傷だと耳元で老婆が安心するように諭す。
次々に集まる人々。
救急車のサイレンが次第に近づいて、止まる。
運ばれる運転手の黒いシルエット。夜でよかった、とぼんやり考える。
あちこちでフラッシュが光る中、駆けつけた警官が私に話しかける。住所と名前と、連絡先とを夢でも見ているような気持ちで答えた。
自転車の前輪がぶかっこうにひしゃげている。
母に連れられて訪れた警察署では、ぬるい烏龍茶が差し出された。調書を書く婦人警官の、甘ったるい香水が鼻につく。
何度も見上げた壁掛け時計。電話の鳴る音。ビニール椅子が汗で張り付く。
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