それは我が侭な贅沢

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なんとしてでも天子を正しい道に導かなければ……そんな風に考えたとき、衣玖はふと眉をひそめる。 月の夜空を、こちらに向かって昇って来る人影が見えたのだ。 (総領娘様!) 彼女の無事な姿を見て、衣玖はほっと安堵の息をつきかける。だが、天子の姿が近づくにつれて、その顔からは徐々に血の気が引いていった。 天子は何やらボロボロであった。服はところどころ破けているし、全身のいたるところに血の滲んだ包帯を巻いている。大怪我をしていると見て間違いない。 だと言うのに、表情は異様なまでに穏やかだった。というか、赤く腫れた頬を押さえて幸せそうににやにやしている。 (まさか、まさか……!) 衣玖は焦りながら、天子の前まで降りていく。間近で見ると、彼女の怪我の酷さと顔に漂う幸福感との噛み合わなさが、より一層際立つようであった。 「あら、衣玖じゃない」 こちらに気づいてにっこり笑う天子の声音も、やはり幸せそうである。衣玖はごくりと唾を飲み込み、震える声で問いかける。 「あ、あの、総領娘様……そのお怪我は……」 「え? あ、ああ、これは、ちょっとね」 照れたように誤魔化したあとで、天子は「それより聞いて!」と嬉しそうに言う。 「私、よく分かったわ。叩いてくれる人がいるって、とても素晴らしいことなのね!」 「は」 「叩かれるのが嬉しいっていう気持ち、理解できた気がする。だからね、衣玖」 童女のように無垢な笑みを浮かべながら、天子は心底幸せそうに腕を広げた。
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