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私たちは誘導されるがまま父の元へ向かう。 いくつも並ぶ簡易ベッド。 白いカーテンで仕切られ、時折バイタルの電子音が耳に入ってくる。 父のいるベッドに近づくにつれ、緑の床に血の足跡が増える。 カーテンを開ける。 そこには血の気の引いた顔色の父が、苦しそうに呼吸をしていた。 枕元には青い大きなバケツ。 中身は…大量の血がなみなみと入っていた。 『…お父さん』 声にならない声を絞り出して呼びかける。 父はゆっくり視線を私達にむけた。 そして口を動かす。 が、声にならない。 『…くる…し…』 『…苦しいね、でも頑張って。約束叶えてくれなきゃ!』 母が声をかける。 『…約束って?』 私と弟は首を傾げる。 『家族でサイパン連れて行ってくれるってお父さんが言ったのよ』 『ほんなら連れて行ってくれんと。大丈夫だよ、きっと医師がなんとかしてくれるよ!』 私は精一杯の笑顔で父に告げた。 …でも、本当はなんとかならないのも解っていた。 父に会う前に医師から説明を受けていた。 唯一の処置の希望も断たれてしまったことを。 いわゆる【手の施しようのない状態】 それを知ってしまって、父を励ますことは父を騙すようで… 『…し…にた…く…な…』 今までと違う自分の体の異変に、父はかなりの恐怖を感じていたに違いない。 途切れ途切れの声で、苦しい・死にたくないを何回も繰り返していた。 私がそんな父にしてあげられることは、ただ強く手を握りしめることだけだった。 ゴツゴツした黄疸が出た大きな手は自らの血で汚れている。 暖かい大きな手のひら。 大きな父が、とても小さく見える。 父は強く私の手を握りしめていた。 右手は上の弟が、左手は私が。 痛いほど強く… 『ベッドの準備ができたので、病棟の方へ移動しますね』 看護士が声をかける。 そして握っていた手を離そうとしたときだった。 父の手が更に強く私の手を握りしめる。 『お父さん?』 何かを感じたのだろうか? 父は握りしめた手を離そうとしなかった。 『大丈夫だよ。いなくなったりしないから。病棟行くだけだからすぐ会えるよ、ね?』 私は父の不安を少しでも和らげるために諭した。 父はそれでも手を離さなかったが、医師になだめられようやく手を離した。
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