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「あなた、起きてくださいまし」  優しく聞き覚えのある声に脳を揺り動かされ、孝哉は目を覚ました。朝の日差しが窓から差す。自分で開けた覚えはない。 「おはようございます。孝哉さん」  ナツが優しく微笑んだ。孝哉はナツに微笑みかけながら起き上がった。頭の中では『夢』が不思議なほど鮮明に残っている。 「おはよう、ナツ。嫌な夢を見た。君がいなくなる夢だった」  孝哉は思い出して急に悲しみが蘇って、ナツをひしと抱きすくめた。 「ああ、怖い。嫌だ。私は嫌なんだ。君がいない世界なんて怖くてたまらない。ナツ。どうか約束しておくれ。私を置いてどこかに行ってしまわないでおくれ」  孝哉は声は抑えていたが、溜まらず涙をこぼしながらナツに訴えた。鼻にかかったナツの髪からよい匂いがした。 「孝哉さん。ナツは孝哉さんのそばからいなくなりはしませんわ」  ナツは孝哉を抱き返し、泣きじゃくる子を諭すように優しく言って聞かせた。二人はしばらくそのまま抱き合っていたが、やがてナツが「朝食の用意をいたしますわ」と言って離れていった。 「いや、ナツ、今日はダメだ。どうにも腹が減らぬ。今はただ吐き出したい。文章を吐き出したいのだよ、ナツ。そうでなければ君の作る朝食はちっとも入りそうにない。胸がいっぱいなのだ。君がこうしていてくれることで胸がいっぱいなのだよ」  孝哉は散らかり放題の書斎に入って、すぐにペンを原稿に走らせた。この胸の底から湧き上がる、なんとも言い難い歓喜の形ない声を文章に直さねばならぬと、一種の使命感によって孝哉は文字を連ねては、ああ、失敗だ、と言って書き損じをグシャグシャにして投げ捨て、また書いてと繰り返していた。
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