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いやいやいや。ないない。
人間が宙に浮くなんて言っていいのは、ネバーランドに旅立てる年頃までだ。
二十代も折り返しを迎えた俺が言っていいことじゃない。
なにより俺のケツはしっかりと椅子の感触を掴(ツカ)んでるんだ。断じて浮いてなどいない。
それじゃあ、どういうことだ?何であるはずのもんが見えない…
ヤバい。パニクってきた…
何が何だかわからない俺は、思わず目を瞑(ツム)った。
そして自分を納得というか安心させる為に、この状況に至った経緯を思い出そうとする。
そうだ。ここは有名な眼科医員で、俺は長年俺を煩(ワズラ)わせてきた近視を克服する為、レーシック手術を受けたんだった。
そして手術は無事成功し、一通りの検査を終えて、つい今し方目を覆う包帯を取った。
それからだ。
俺の目が変なものばかり捉え始めたのは。
下着姿のナースに見えない椅子。
まるで、夢か幻覚を見ているようだ。
幻覚ってことはあれか?一時的な術後の後遺症ってやつか?
幾分落ち着きを取り戻してきた俺は、そっと目を開いた。
すると、今まで殺風景だと思っていた室内が、実は様々な医療器具に満ちていたということに気がつく。
つまり、おかしかった俺の目が治ったということだ。
もちろん、この座り心地の悪い椅子も見えている。
「ふぅー。何だったんだ、一体…」
悪い夢から醒めたような気分でため息をつく俺。
そこへ、
「佐久間さん。どうですか?ご容態のほうは?」
と言って、丸渕眼鏡で顔のテカテカした俺の担当医が入室してくる。
その後ろには、さっきのナースが惜しいことにきちんとナース服を身に纏(マト)って控えていた。
「ああ、さっきまで少し妙な見え方をしてたが、今は大丈夫だ。」
俺は少し変化球気味の本心を医者に投げつけた。
医者はそれを聞きながらカルテに何事か書き込み、「うんうん」と頷(ウナズ)いたりしている。
そして顔の前で人差し指を立て、
「何本に見えますか?」
などと一通りの問診を始めた。
俺はそれに一応ちゃんと答える。
だが冷静になってきた俺の頭の中には、さっきまでの不可解な現象でいっぱいだった。
「まあ、手術の影響で一時的に焦点が合わなくなるという例もありますが、今診た限りでは大丈夫でしょう。」
脂の浮いた顔に笑顔を浮かべて、医者は「異常なし」という保証をくれた。
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