ツタンカーメンの呪い

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事の発端は、今から100年前のエジプトから始まる。 ハワード・カーター、イギリスの考古学者はエジプト史の中でも目立たない存在のファラオ・ツタンカーメンの王墓を探していた。 古代エジプト第18王朝12代目ファラオのツタンカーメンは10歳に満たない年齢で即位した。 そして、宮廷内部抗争に巻き込まれたか18歳にて謎の死を遂げた王だった。 ハワードは、王家の谷にあたりをつけたものの発掘資金も無かったが、ハワードに資金援助を申し出た人物が現れた。 大富豪の伯爵ジョージ・カーナウ゛ォン卿である、彼は長年にわたり古代エジプト文明の考古学的な発掘に資金を提供してきた人物で、ハワードのよきパトロンとなったのである。 カーナウ゛ォン卿の後ろ盾を得たハワードは、1915年にエジプト政府から王家の谷の発掘許可を得たのち、1921年掘り続けたが何も発見できなかった。 さすがに財政的に苦しくなったカーナウ゛ォン卿は1922年を最後にする事を告げる。 その期限ぎりぎりでハワードは遂に王墓を発見する。 翌年2月17日カーナウ゛ォン卿や関係者の見守るなか、その扉は開かれたのだった。 そこで彼らが目にしたものは予想を遥かに超える夥しい数の豪華な副葬品だった。 ところが歓喜に満ちたその日には、ファラオの呪いも機能しはじめた。 手始めには、発掘現場でのマスコットだったハワードの飼っていたカナリアがコブラに呑み込まれたのでした。 コブラは王の黄金マスクに着いているマークでもあるからです。 それを聞いた発掘関係者は一抹の不安を覚えた、なぜなら『この墓に一度たりとも足を踏み入れた者は、余がまるで鳥を襲うようにその者に襲い掛かるだろう』という、一文を読んでいたからです。image=314335904.jpg
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