第一章:鏡の中の鏡

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 昨夜、山口先生の魔手(お姉さんバージョンは色っぽくて危険だ)からなんとか逃れた僕は、今朝も健全たるこの身を朝日の元に晒すことが出来た。  つまり僕は退院を果たしたのである。僕の精神異常は特に原因も見当たらず、精神安定剤を数ヶ月分処方されただけだった。入院なんて大層なものは必要なかったのだ、まったく。  ともあれ、無事だったことは大変喜ばしい。快気祝いに行きつけの小さな喫茶店で二番目に高いメニューを頼んでやろう。 そう意気込んでの道中、アスファルトに寝転んでいる人影を発見した。  それは四十台半ばと思われる男性が、赤い水溜まりの上に散らかった玩具箱のように中身を溢れかえらせた腹部を、存分に見せ付けながら静かに横になっていた。  端的に言うなら死んでいた。いや、これは殺されたというべきだろうか。  自殺でないのは明らかだろう。割腹自殺の後に自分の腹をまさぐって、内臓を引き出すなんて真似はしないだろうよ。っていうか割腹自殺ってのがありえないよ。  そうとすれば、中身をぶちまけて放置プレイなんて中々悪趣味な犯人だね。  いや、待て。  どうしたんだ、僕は。人が死んでいるんだぞ。“人が死んでいるんだ”ぞ?  僕はあれほどまでに“死”という存在に怯え、悪夢に見舞われたというのに。  何故冷静でいられるんだ? 何故動揺しないんだ? 何故嘔吐しないんだ? 何故パニックしないんだ? 何故気を失わないんだ?  何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故。  僕はどうしてしまったんだ。僕は、いったい? 本当に僕は僕?  思考の渦に囚われて、ぼーっと立ち尽くしてしまう。  しかし、そんな空虚な時間は突如響き渡った甲高い悲鳴によって破られた。  悲鳴の主はうら若い女性で、腰を抜かしてわなわなと震えている。  そして、異物を見るような目で僕に大きな恐怖心と警戒心を明らかに見せ付けながら、急いで携帯電話を取り出しておそらく警察に連絡を始めた。  僕が殺したと誤解したのだろうか? しまったな、僕が連絡するべきだったか。  空は快晴、対する僕の心境はどんより曇り空。己自身を見失った僕は、何も考えず流れに身を任せることにした。そうすれば楽だから。  それから先のことはあまり覚えていない。
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