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――ちくしょう……!  死に物狂いで脚を動かす男の唇から荒々しく息が吐き出される。それは冷たい夜の空気に触れ、白く濁って彼の背後へ流れ散って行く。  身分を明かそうとしないクライアントからの依頼は別にいつも通りだったし、何よりも相手が提示したその莫大な報酬のせいで猜疑心の入り込む隙間がなかったのが今更になって悔やまれて仕方がない。  とあるモノを輸送しようとしている連中からそれを奪って来いとの、彼にとっては単純な仕事のはずだった。  それを信頼して、ローリスクハイリターンな金儲けをするつもりで軽く承諾してしまったのだ。  欲に目を眩ませてしまった後悔と、背後から着実に迫っている死への恐怖で一杯になった胸を抱え、男はしっかりと懐の上から左手を握り締めた。  「ぐっ……は、ぁ……」  入り組んだ裏路地を、どれぐらい走っただろうか。からからに乾き、鉄の味がし始めている喉を無理やりにごくりと動かして、男はT字路の壁に手を突いた。  冷たい空気が気道をヒュウヒュウと通り抜けて、そこに残ったわずかな水分さえも奪い取っていく。 「っ……!」  不意に、右側の闇の中で何かが動いたように見え、思わず息を詰める。 湧き上がった恐怖心に考える余裕はなく、男は反射的に左の道へ駆け出した。 「うそ、だろ……」  目の前に立ちふさがる壁に、男は愕然として目を見開いた。緊張の糸がぷつりと切れて、限界を超えていた脚から力が抜ける。がっくりと膝を突きそうになるのを必死でこらえ、ふらふらと壁に歩み寄った。  湿気を吸ったレンガが彼の手のひらをひんやりと湿らせた。 コツリ、と靴音が響く。  すでに張り裂けそうなほど波打っていた心臓が、一際大きく、ドクンと跳ねた。  ――見たくない。  現実から逃げようとする気持ちを抑え、男はゆっくりと振り返った。  はじめは、何も見えなかった。ただ、暗闇が広がっているだけ。  空を覆っていた分厚い雲が流れて、月があらわになる。男が追い込まれた袋小路の入り口にも月光が差し込む。柔らかな白い光に全身を黒衣で覆った長身の人影が照らし出された。  ――いや。  その毛髪だけは、燃えるような赤だ。項のあたりでひとつに纏めた髪を、獅子の尾のようにゆらりと揺らしながらその影が近づいてくる。  完全に獲物と化した男は歯の根をガタガタと鳴らしながらも、運び屋としての責任を忘れることはなかった。
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