4人が本棚に入れています
本棚に追加
彼の長い指先が88の鍵の中から一つの白鍵を選び出す。
ポーンと軽くもしっかりとした音が冷えた空気を揺らし、あっという間に溶けて消えた。
彼は視線を鍵盤から外し、俺の視線にぶつけると意地の悪い笑顔をうかべた。
「ねぇ、何か弾いてよ…」
俺は少し驚いた顔をして、苦笑いをうかべる。
「無理だよ…
最近、ピアノなんて弾いてないし、しかも、手が悴んで動かない…」
俺が顔の前で両手を擦り合わせてハァーと息を吐きかけながら答えた。
すると彼は
「じゃあ、ちょっと此処で待ってて…」
と言って俺の返事を待たずに教室を出て行った。
一人取り残された俺は、さっきまで彼が立っていた位置に移動する。
彼と同じ様に人差し指でもって、白鍵の一つを押さえてみる。
さっきのそれより低い音が長めに響き、やがて細く消えてゆく。
彼と同じ目線で同じ行動をしてみても、やはり彼が何を考えていたのかは解らなかった。
俺はピアノの椅子に腰掛けると、指を鍵盤の上に並べた。
何の曲を弾くかを迷った後、数年前に流行った曲を選ぶ。
あまり好きな曲ではなかったが、簡単で弾きやすい為、そのアップテンポな曲を弾き始める…
イントロを弾き終えるところで音を間違え、指をとめた。
やはり、寒くて手先がうまく動かない。
俺は再び手を擦り合わせた。
「弾く気になったの?」
急に声をかけられ、俺は少し驚いて声のした方へ振り向いた。
そこには嬉しそうに笑った彼が立っていた。
「…やっぱり寒くて無理…」
俺がいつもの苦笑いを浮かべると、今度は満足そうに笑う彼。
「はいよ。奢りだから…」
彼はそう言ってポケットから缶珈琲を取り出し、俺に手渡した。
俺は『無糖』と表示された珈琲を受け取った。
「…ありがと…」
彼は俺に背を向けるように俺の座ってる椅子半分に腰掛けた。
最初のコメントを投稿しよう!