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乳白色の海は凪いでいた。
時の流れはひどく穏やかで、このままここで溶けてしまえばどれ程幸せなのだろう、と『彼女』は思った。思考を持たぬはずの自分ですらそうなのだ、生きている者にとってはまさしく桃源郷だろう。
ここには白しかない。
戦争も、柵(しがらみ)も、愛憎も――なにもない。優しい虚像のセカイだけが、何処にも行けない自分を受け入れてくれる。それは喜びであるはずだ。
だと言うのに。
これは何なのだろう。しこりのように『彼女』に残り続ける、この感情は。
〈――アナタはだあれ?〉
甘ったるい幼子の声が『彼女』の内側で響いた。
これは一体何だったか。自分の何かか、或いは他人の何かか。理解出来るものが何ひとつない『彼女』だったが、己の魂が軋み悲鳴を上げていることだけは感じ取れた。抵抗をしようとして、その方法すら分からないことに気付く。
〈どうしてアナタはそんなところにいるの?〉
うるさい。
黙れと耳を塞ぐが、声は止まない。ころころと笑う音を断ち切ってしまいたかった。ああ、だってそれは――。
〈こっちにおいで〉
駄目だと『彼女』は目を瞑る。言っては駄目なのか、行くのが駄目なのか。そんなこと、知るはずもない。
ただ、助けてほしいと願う。苦しくて辛い。ここは優しい場所ではなかったのか。嫌だ、早く逃げ出してしまいたい。
けれど――何から?
悲鳴の如き高らかな切断音が、数多の思念を掻き消してゆく。『彼女』はやめてと叫ぶことすら知らなかった。
弾けて消える。
そんな真白な泡にならず、たったひとつだけ残ったのは――
「ああ……漸く会えたね、ハーマイニア」
何の予兆も予感も予期もなく、声が落ちてきた。上から響く、耳に心地の好いたおやかな音。聞き間違えではない、確かに己以外の何かが傍で囁いている。
本当に、助けてほしい。切実にそう望む。だが、そんな唯一の『彼女』の思考すら叶わない、そんな予感に震えた。
「なかなか見付けられなかったはずだよ、こんなところに居たんだからね。会えて嬉しいよ、私の可愛い娘」
睦言のように甘ったるく熱っぽい言葉は、『彼女』を白い微睡みから引き上げてゆく。
遠慮なしに引っ張られた『彼女』から、今し方感じていた予感や願いがばらばらと零れた。
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