54人が本棚に入れています
本棚に追加
〈――アナタはだあれ?〉
残思たる『彼女』の内側から発された誰とも知れぬ幼子の、他の生物には聞こえるはずのない的外れな問い掛けを受け、声の主は愉快げに口端を歪める。だが、それは狂気に犯された表情でもあった。
「僕のことを、忘れてしまったのかい?」
悲しげに響く男の声色に、『彼女』は硬直した。骨の髄から、言い表せない感情が湧き上がる。
「でも、大丈夫。愛しいハーマイニア。お前は私のものだよ」
横暴としか言い様のない、刷り込みに近い台詞にすら黙って頷く程に、その感情は絶対的だった。
抵抗など知らない。分からない。
そのとき『彼女』に出来たのは男の声を受け入れることだけ。
「お前は私の娘なのだから」
私の娘。そう求められるままに『彼女』は感覚の生まれた右腕をゆっくりと持ち上げた。こつり、と固い感触。直ぐ様冷たいものに手のひらを包まれる。
口があれば、今この瞬間、悲鳴を上げていたに違いない。そう『彼女』は思う。ぎちぎちと痛いくらいに握られた手を振り払うことも出来ず、白い波の中で息を潜めていた。呼吸など、してはならないのだ。
だって、口など存在しないはずでしょう?
「私の声に応えてくれるんだね! ああ、何て素晴らしいんだ! 愛しい私の娘よ、早くその目を開けておくれ」
目。瞳。眼。
ぐるりと巡る単語。そんなものは付いているのだろうか。この白い空間以外を見なければならなくなる、そんなものが。
『彼女』は確かめるように一度固く目を瞑った。ああ、確かにある。筋肉が収縮し、弛緩する感覚に、目玉の存在を理解した。
開けられる。
けれど、開けたくない。
矛盾しか持たない己に戸惑う『彼女』を、『彼女』ではない誰かは待とうとはしなかった。熱に浮かされた呼び掛けと共に、冷たすぎる指先が『彼女』の頬を幾度となく滑る。急かされていることは明白だった。
「ハーマイニア、私のハーマイニア……」
呼んでいる。
ハーマイニア、を。
それを誰だろうと思う概念は『彼女』にはなかった。
瞑りすぎていて張り付いてしまったかのような瞼を抉じ開ける。白い海は何処にもなかった。在るのは眩しい光。唐突に姿を現した見知らぬ世界にピントが合わず、瞬きを繰り返す。
最初のコメントを投稿しよう!