序章

3/5
前へ
/60ページ
次へ
  〈――アナタはだあれ?〉  残思たる『彼女』の内側から発された誰とも知れぬ幼子の、他の生物には聞こえるはずのない的外れな問い掛けを受け、声の主は愉快げに口端を歪める。だが、それは狂気に犯された表情でもあった。 「僕のことを、忘れてしまったのかい?」  悲しげに響く男の声色に、『彼女』は硬直した。骨の髄から、言い表せない感情が湧き上がる。 「でも、大丈夫。愛しいハーマイニア。お前は私のものだよ」  横暴としか言い様のない、刷り込みに近い台詞にすら黙って頷く程に、その感情は絶対的だった。  抵抗など知らない。分からない。  そのとき『彼女』に出来たのは男の声を受け入れることだけ。 「お前は私の娘なのだから」  私の娘。そう求められるままに『彼女』は感覚の生まれた右腕をゆっくりと持ち上げた。こつり、と固い感触。直ぐ様冷たいものに手のひらを包まれる。  口があれば、今この瞬間、悲鳴を上げていたに違いない。そう『彼女』は思う。ぎちぎちと痛いくらいに握られた手を振り払うことも出来ず、白い波の中で息を潜めていた。呼吸など、してはならないのだ。  だって、口など存在しないはずでしょう? 「私の声に応えてくれるんだね! ああ、何て素晴らしいんだ! 愛しい私の娘よ、早くその目を開けておくれ」  目。瞳。眼。  ぐるりと巡る単語。そんなものは付いているのだろうか。この白い空間以外を見なければならなくなる、そんなものが。  『彼女』は確かめるように一度固く目を瞑った。ああ、確かにある。筋肉が収縮し、弛緩する感覚に、目玉の存在を理解した。  開けられる。  けれど、開けたくない。  矛盾しか持たない己に戸惑う『彼女』を、『彼女』ではない誰かは待とうとはしなかった。熱に浮かされた呼び掛けと共に、冷たすぎる指先が『彼女』の頬を幾度となく滑る。急かされていることは明白だった。 「ハーマイニア、私のハーマイニア……」  呼んでいる。  ハーマイニア、を。  それを誰だろうと思う概念は『彼女』にはなかった。  瞑りすぎていて張り付いてしまったかのような瞼を抉じ開ける。白い海は何処にもなかった。在るのは眩しい光。唐突に姿を現した見知らぬ世界にピントが合わず、瞬きを繰り返す。
/60ページ

最初のコメントを投稿しよう!

54人が本棚に入れています
本棚に追加