序章

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   暫くして、ようやっと目というものが機能し出した頃、『彼女』は声の主を発見した。けれど、落ち着く間もなく冷たい肌が『彼女』の身体を包み込む。心臓が驚きで跳ね、渇いた口内から掠れ切った悲鳴が飛び出した。  『彼女』は、己から悲鳴が上がったことに瞠目する。 「あ、ああ、ごめんよハーマイニア。嬉しくて、つい。起きたばかりのお前を驚かせてしまったね」  穏やかに笑う、優しげな風貌の男。さ迷う間に感じていた抗えない激しさなど、微塵も匂わせていない。印象に残りにくい、何処にでもいそうな顔立ちである。着ている上質な服が素朴な顔立ちと合っていない程だった。  だが、その男に名前を呼ばれるだけで、『彼女』の左胸の心臓は早鐘を打つ。理由など分からない。ただ、男の瞳に見つめられているという事実が、彼女の心臓をうるさいくらいに高鳴らせていた。 「ハーマイニア」  何故だろうか。  それを突き詰めていれば、何か変わったかもしれない。 「愛しい私の娘」  だが、既に考えることを放棄した『彼女』は、あるはずのない口に触れていた。ああ、どうして。落胆と絶望も、ただただ流れて消えてゆく。 「ハーマイニア? どうしたんだい、君の名前を言ってごらん?」  ほら、と。やはり男は『彼女』を急かした。言われるまま唇を開く『彼女』の思考の殆どは、あの白い海に忘れてしまっていた。 「……ハあ、マ、イにア?」  『彼女』はその名前を上手く発音することが出来ない。『彼女』にとっては覚えのない名前は、ただの掠れた雑音に終わった。その失敗に対する羞恥心で『彼女』は頬を赤く染めて俯いた。  しかし、男には十分伝わったのだろう。安堵に緩めた表情のまま首肯する。彼女に言い聞かせるかのように、男はゆっくりと言葉を紡いだ。 「そう、お前はハーマイニアだよ。可愛いくて可哀想な、私の大切な愛娘だ」  たいせつ。  他は全く分からなかったのに、それだけには聞き覚えがあって『彼女』は顔を上げる。 「……ハー、マイニア。かわい、そう。たいせつ、まな、むすめ」 「そうだよ。良く出来たね、ハーマイニア。お前はいい子だ」  冷たい手が、髪の毛を緩く鋤いてゆく。そこで漸く、彼女は身体を横たえているということに気付き、起こそうと上半身に力を入れた。だが、身体はひくりと痙攣を起こしただけ。
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