序章

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   戸惑う。困惑した眼差しを男に向けてみれば、彼は愉快そうに口元を緩めた。 「焦らなくていいんだよ。直ぐに動けるようになるからね」  髪を鋤いていた手のひらが、頬に下りる。お前が愛しい、とその指先が語っていた。 「だから、今はお眠り」  すう、と。  『彼女』にはいらないはずだった呼吸をする。してしまった。そして『彼女』は『ハーマイニア』になる。どの行程で呼吸が生まれたのか、『ハーマイニア』になってしまった『彼女』には理解出来なかった。  急速に必要になった呼吸と引き換えに、強烈な眠気が襲い掛かる。開くことが出来た瞳は、『ハーマイニア』の意思とは関係なく再び閉じてしまった。  瞼の裏側。  手招く、白い波。  残留思念はもう何処にもない。  ただ、白海をさ迷い続けていた『彼女』が、こうして『ハーマイニア』になった。たったそれだけのこと。けれど、それだけのことが何よりも―― 「素晴らしい」  言って、微かに笑んだ。  完全に眠りに落ちた横たわる少女を見下ろし、男は表情をなくす。無表情と言うより他にないが、それだけでは言い切れない不吉を孕んでいた。  少女の頬に掛かる髪の房を静かに払い退け、穏やかとは到底言えない狂気に満ちた笑みを浮かべる。彼女の煌めく金髪を掬い取って口付けを落とした。 「お前が動けるようになったら、まずは洋服を買いに行こう。それから、髪も整えないとね。ビスクドールみたいに、綺麗に綺麗に着飾ろう。ああ、その前に――」  暗闇を這う冷たい微笑が、真っ白なベッドで寝息を立てる無垢な少女を包む。  雁字搦めの鎖が、少女をそこに縫い止めた。 「お帰り、私のハーマイニア」  幸せそうに呟く男の表情は、やはり何処か歪んでいて――  人間と人形は、彼らの知らぬ世界で邂逅した。
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