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「……しまった」
風待陽子は懸命に鞄の中を漁りながら、溜め息混じりに呟いた。
普通なら鞄の中で眠っているであろう物が、物の見事に脱走を図っていたのである。
要するに、筆箱を忘れてしまったというだけの話なのだが。
「どうしたの、風待さん」
そう尋ねるのは、島津さん。下の名前を絵里という。流麗な長い黒髪をはらりとなびかせる姿はとても上品で、陽子には真似できそうもなかった。
島津さんとの差を思い知らされるのは、こういった何気ない仕草を見た時。
島津さんの有する上品さだとかを陽子は持ち合わせておらず、また、それを持つ島津さんに憧れに似た感情を抱くこともあった。
別に島津さんに嫉妬している訳ではないけれど、神様に文句を言いたくなる。
私だって、もうちょっと綺麗にしてくれたってよかったじゃない、って。
あ、でもこれはお母さんに伝えるべき台詞かもしれない。
……まあ、それはともかくとして。陽子は筆箱を忘れたということを伝えなければならない。
その旨を島津さんに伝え、鞄の中を露わにする。教科書やノートはしっかりと中に収まっているのに、筆箱の姿はどこにも見当たらない。
「あらら。教室?」
教室に忘れてきたのか、という問いなのだろう。陽子は首肯した。
「うん、多分ね」
「……じゃ、行きましょう」
なんという行動力だろうか。島津さんは、当の本人である陽子を置き去りにして下駄箱の方へと向かってしまった。
「……って、島津さんっ!」
別に筆箱がないと困るという訳でもないし、わざわざ今取りに戻る必要もないと諦めていたのに。
「筆箱忘れちゃったよ、あはは」
「全くお馬鹿さんね、風待さんは。うふふ」
みたいな感じに、笑い話になって良かったのに。
……どうせ明日になれば、筆箱は戻ってくるわけだし。
行動力があるというのも困りものだな、なんて苦笑しつつ。
――でも、それは優しさの裏付けでもあるわけで。島津さんの真面目すぎる優しさ、まっすぐな優しさ。
それはよく分かっているから。心中島津さんに感謝しつつ、彼女の背中を追いかけた。
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