静寂の琴

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 その少女の名を音無奏といった。  名前と苗字が対照的な彼女の名前。その名前は学園内では少しだけ有名なものであった。彼女が美しいから、というわけではない。むしろ地味といっていいかもしれない。冴えない風貌に黒縁眼鏡――もっともこれは伊達眼鏡だが――華やかさとはかけ離れたものであることは確かである。  ではなぜ彼女が少しだけ有名なのかと言えば、それはただ一点に尽きるものだった。  彼女が他人と会話をしている姿を見たことがない、というのが彼女を知る者の間では有名な話である。誰かが話しかけても言葉を発することなく、軽い動作で意思を伝える。彼女は徹底してその仕草を崩すことはなかった。  中には諦めの悪い者が果敢に話しかける光景もかつては見られた。だが、その全てが徒労に終わった結果――いつしか彼女に話しかける者もいなくなっていった。  それでも―― 「お前って本当に変わっているよな」  少年は奏に話しかけていた。  放課後。誰もいなくなった教室で彼女が一人当番日誌を書いているところに、未だに諦めず話し掛け続ける少年の姿があった。  少年は観月翔という。奏のクラスメイトであり、彼女同様学園の変わり者と称される存在である。彼が変わり者と言われ続ける所以はその性格にあった。他人事に必要以上に首を突っ込む者。誰かが頼まなくとも相手が必要とすることを事前にやってのけるのだ。それが相手が望もうが望まなくとも。言い様によってはただのお節介焼きである。  それはともかく。  誰もが諦めた音無奏との会話にめげずに挑戦し続けているのは、翔の性格上の問題によるところが大きいのだろう。  毎日のように機会を窺っては話しかける翔の存在は、ある意味、奏にとっては迷惑以上のものではないだろうか。 「今日も話してくれないのかな」  それを気にする様子もなく――もっとも分かっていてやっているのか――翔は今日も彼女に声を掛けるのだ。  奏はその問いに答えることなく、静かに当番日誌を閉じ、鞄に筆記用具を詰め込み始めた。  帰り支度を始める彼女の姿を見て翔は、 「今日はお終いか。じゃあまた明日」  奏に別れの挨拶を告げると自身の鞄を手にして一足先に教室を出て行く。奏はその姿を見送ると、ほっとしたように胸を撫で下ろした。ようやく静かになった、とでも言うかのように、彼女は部屋の戸締りを確認して教室を出た。
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