最蹴

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 ……いや、ここは彼女にとっては汚点と言っても過言ではない鬼門。  本人すら気付かない程度には神経が過敏になっていたとしても、不思議はないのではなかろうか。  ある意味、必然的な出来事だったのかもしれない。  地面に屈み、一瞬だけ光った小さな何かを拾い上げる梨乃。  それは、不自然なまでに磨き上げられた、しかし何の変哲もない百円玉だった。  自転車のライトが反射して、光ったように見えたのだろう。  どうでも良い物には全く興味を示さない梨乃にとって、しかしその不可解な百円玉からは妙に引っ掛かる物が感じられた。  不可解と言えば、あの訳の分からない新入社員。  彼女にとっては理解不能なそれが、不意に脳裏を過ぎった。  あれが何を熱弁していたかなんて興味が無かったため、今や内容など何も思い出す事は出来なかったが、しかし自分は何故あれの事をこのタイミングで思い出したのだろう、と梨乃は眉をひそめる。  ただ、あれは馬鹿で意味不明ではあったが、悪人の類ではない、と彼女は分析する。  例えるなら、そう──この百円玉がまさにあの男そのものだ。  磨いてピカピカにした所で、そこには何の価値も生まれない。  ピカピカであろうがボロボロであろうが、百円玉には百円の価値が保証されており、しかしたった百円の価値を超える事は無いのである。  ピカピカにする行為は、全くの無駄。  彼は、そんな無駄な事に全力を費やし、しかも成し遂げ満足してしまうような男なのだろう。  彼にどんな事情があって前の職場を辞める羽目になったのか、その事自体にも梨乃は興味が無かったが、その一生懸命さと、真っ直ぐさと、そして根性だけは評価してやっても良いかな、と彼女は思うのだった。  もちろん、会社にとってマイナスになるような男ならば、迷わずに社長へ苦情を叩きつけてやるつもりではあるが。  努力すれば報われるとか、真面目であれば一生安泰とか、世の中はそんな簡単には出来ていないのである。  梨乃は気分を変えるべく頭を軽く振り、右手に握った磨き上げられた百円玉をスーツのポケットに仕舞う。  仕事で疲れてはいるものの、やるべき事が増えてしまっては仕方が無い。  彼女、子安梨乃は回れ右して自宅とは反対方向を向き、再び騒がしい町並みの方へと自転車を走らせていった。  この先、二、三分も進んだ所に、確か小さな交番があったはずである。
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