最蹴

1/3
5人が本棚に入れています
本棚に追加
/34ページ

最蹴

 時は少しだけ遡る。  子安梨乃は、軽快にペダルを漕いでいた。  職場である〝緋色〟の事務所は決して家から目と鼻の先にあるという訳ではなかったが、彼女は自転車での通勤を日課としている。  別にバス代が惜しいわけではないし、普通自動車運転免許を持たないわけでもない。  梨乃は無駄な体力の浪費を好まない合理主義者ではあったが、だからこそ通勤ラッシュに巻き込まれて車内でイラつく事は避けたいと思い至ったに過ぎないのである。  幸い、真っ直ぐに家へ向かえば三十分かかるかかからないか程度の時間で帰宅できる距離という事もあり、自転車が使えない程の積雪でもない限り、彼女は通勤に公共機関や自家用車を利用する事はなかった。  ノロノロと徐行と停止を繰り返す鉄箱の行列を尻目に、梨乃はスイスイとその横を抜けていく。  次の角を左折、そのまた次の角を右折すれば、もう煩わしい喧騒からは遠い住宅街の一歩手前である。  左折。  大通りに背を向ける形となり、周囲は急に静けさに包まれた。  右折──の前に、彼女は唐突にペダルを漕ぐ足を止め、ブレーキを握る。  錆び始めたタイヤのフレームをブレーキゴムが押さえ、嫌な金切り音をたてつつ一旦停止。  どれだけ大切に使っても、結局は屋外で使う道具。  物持ちが良い方の梨乃も、そろそろ自転車の買い替えを検討し始めている。  さて、この角を曲がった所には自動販売機が設置してあり、勢いを殺さずに進めば人を轢いてしまう恐れがある場所だ。  と言うか、彼女はまさに昼間に一人轢いており、自転車ごと転倒してしまった所だった。  たまたま相手が頑丈だったから良いものの、怪我などを負わせていたらと思うと、流石の梨乃も涼しい顔ではいられない。  不覚である。  しかし顔なんて既に忘れてしまったけれど、果して衝突した相手はどんな輩だっただろうか──  一秒後には〝どうでもいい〟と結論付けて再びペダルを漕ごうとした彼女の視界の端に、キラリと光る小さな物が過ぎる。  梨乃がそれに気がついたのは、本当に偶然であった。  気付いた事が偶然ならば、それの正体を確かめる為に彼女が自転車から下りた事は奇跡と言えるかもしれない。  仕事でほどほどに疲れた梨乃が、どうでも良い物に興味を覚えるなど、本来ならば有り得ない事だ。
/34ページ

最初のコメントを投稿しよう!