懐かしの望遠鏡

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しかし元樹はこの時全く気づいていなかった、自分の足下にある、むしろ、無かった物を。 彼はそこへ足を下ろしてしまった。 落ちる、落ちる、落ちる。 急に狭くなる視界、浮遊感、耳を切る風切り音、そして望遠鏡を守らなければという使命、それしかなかった。 そして、背中全面が水面に叩きつけられる。 仰向けに水に浸かっているものの溺死するほどの深さはない。 だが元樹は水面で体中を強打したため動けなかった。 「つぅ。いてぇ。なんだ、 俺マンホールか何かに落ちたのか? っくそ、責任者誰だよ、工事やら点検やら何やらするんなら人かせめて看板くらい立てろよ」 元樹は言っている事は元気が良かったが、実際のところ目が霞み、意識は朦朧とし、それ以上口を開けるエネルギーは皆無だった。 水の流れるままに体を委ねる事となった元樹は、それでも両手に抱えた望遠鏡を離すことはなかった。 もしかしたら落下の衝撃で壊れてしまって使い物にならないかもしれなかったが、元樹にはそれはわからない。 ただ、離したくなかった。 ふと、自分の落ちてきた穴を下から覗いて見ると、真っ暗闇な世界にちょうど満月だけが輝いて見えた。 薄れゆく意識の中、元樹は痛む右手を唯一見える光球に伸ばした。 掴もうと懸命に腕を伸ばすが、届かない。 気絶する一瞬前元樹はその光景を見て、とても『綺麗だ』と思った。 そして気を失った。
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