罪の数だけ愛を捧ぐ

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だが彼の性格上、この時代の情勢など気にならないことはなかった。知識欲に囚われた男なのだ。その欲望を満たすことのできる唯一の方法は、時折人里に下りては木陰に隠れ、その話を聞くこと。そのために思いがけず自分の姿を目撃される事も何度かあり、弁慶はこの二日のあいだ不安を感じていた。 「もう何度も人の気配を感じた。そろそろ僕の存在が知れてもおかしくないころですね」 その里の人々に受け入れてもらえる可能性は無いに等しい。いくら武術に長けているとはいえ、さすがに多くの人を相手にできるはずもない。今の弁慶にはなす術などありはしないのだ。もといた世界で、自分がいかに肩書によって守られていたのかがわかる。それほどに「熊野別当の親族」という肩書は大きかった。 透明な水は玉になって弁慶の肌をコロコロと転がり落ちる。その滝壺の水は透明に澄んでおり、禊にはとても適していた。小さな桶で水を被り、水を含ませた布を肌にあてる。髪に絡まった雫が光を反射しキラキラと輝く光景は、人を惹きつける事だろう。 その様子をジッと見つめる双眸があった。 「あれは……鬼?」  男の声は微かに震えていた。だが、気配も隠さずに送られる視線に気づかないほど弁慶は鈍くはなかった。 「見ているほうは良いでしょう。ですが見られている者としては、けして良い気持ちはしません」 背後を振り返る事もなく、弁慶はよく通る声でその双眸の主に向かってそう言った。すると、弁慶の遥か背後にある背の高い草が揺れた。 (逃げられる……!) 弁慶はとっさに傍にあった単衣を羽織ると、逃げ出した男を追いかけた。木々の葉が肌を掠め、白い肌に小さな切り傷ができるのも構わず走り続ける。弁慶の足は速く、すでに男の背中は手を伸ばせば届く所にあった。そのまま距離を縮め、草の生い茂る開けた場所に出たところで後ろから押し倒し男の腕を絡めとる。 「『鬼がいる』と人々にふれてまわるつもりですか?……ですが残念ながら僕は鬼ではありませんよ」 男は地面に押さえつけられたまま、負けまいと言い返す。 「口ではどうとでもいえるだろ!都に現れる鬼は金色の髪に青い目をしていると聞く」 「なんだ、よくご存じじゃぁありませんか。……さ、僕をよく見て」 男の様子は落ち着いていたので弁慶は拘束していた腕を開放し、その顔を自分の方に向けた。
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