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ここは土佐の国、高知城下土佐郡上町である。その本丁筋に面した一角に、坂本長兵衛直足と言う土佐では下級武士の身分にあたる『郷士』の屋敷があった。
長兵衛は文武に秀で、性格も温厚で人当たりもよいと評判の武士である。そんな長兵衛の妻が、今まさに臨月を迎えていた。
「幸、体の方は障りないがかえ?やや子はどうぜよ?」
幸は生来の病弱に加え、齢もすでに四十を越える高齢だった。それ故、長兵衛は母子の身を毎日のように案じるばかりだ。
「えぇ、今日は暖かいですき、調子もえいがです」
猫好きの幸は、長兵衛が心配するのもお構いなしに、いつものように猫を抱き上げ、軽くほほえんでみせる。
「けんどのぉ…おまんは体が弱いき、アシは心配で心配で堪まらんがじゃ!」
それでも尚、長兵衛は妻の事が心配なのだ。
「大丈夫ですき。それよりおまさん、アテは早ようお腹の子が見たいがです」
まだ見ぬお腹の子に思いを馳せると、幸は嬉しさが溢れ出さんばかりにニコリと笑う。
思えば、三年前に子が生まれた時も病弱な幸の体を気遣い、これで最後と願掛けのつもりで長兵衛はその時の女児を『乙女(とめ)』と名付けた。
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