春はあけぼの

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 取りあえずすぐに動くこともないし、日も傾いてきたので道成は泰久宅を後にした。  夕刻の黄昏時。擦れ違う人の顔さえ分かりにくい。そこに、官位をもつ道成が従者も連れず歩きまわるのはさすが武官というところだろうか。藤の香りを供に、完全に暗闇になる前には自宅につきたいとやや足早に歩を進めた。  ふと、遠くから笛の音が聞こえて来た。かなり遠い場所で吹いているのだろう。僅かに響きが聞こえるだけだが、それでも人通りの少なくなった一条通りでは充分だった。 「ほほぅ……」  道成は感嘆の息をもらした。  楽はしないが、それでも美しいものは心惹かれる。藤の香りと笛の音が混ざって夢心地の気分だ。  ふと橋を渡ろうとした時、その中ほどで人影が見えた。 ――春を背に 我が身に積もる雪竹の おつる滴の いづことあらん――  その人影が歌っているらしい。声の高さからして女だと分かる。 (内裏以外でこのようなものが聞けるとは……)  その歌が笛の音に合わさる。女の透き通るような声と笛の音が混じれば、いよいよこの世のものとは思えなくなってしまった。道成は月に照らされながら雲の上を飛ぶ様子を思い描く。 (しかし……なぜこのように悲しいものなのか……)
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