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「え……」
夕方帰宅した私は、お母さんの言葉に絶句していた。
何も言えず動けない私をよそに、お母さんとお父さんはせかせかと身支度を整えている。
「どういこと?」
間を置いて、お母さんが言った言葉は、聞き間違いであることを願い、再度聞いてみた。
「だから、お父さん急な仕事が入ったから、明日までには帰らなくちゃいけないの!早く支度して!」
お母さんはとてもイライラした様子で言った。きっと、お母さんも久々の休日、ゆっくり過ごしたかったに違いない。
お父さんは支度をしながら、申し訳なさそうな顔をしていた。
「こらこら、そんなに怒らないの。仕方ないでしょう」
お婆ちゃんは、娘の怒りをなだめさせるように優しく語りかける。
帰らなくちゃいけないんだ。
帰る……。
私の頭には、彼の顔が浮かんでいた。
明日も明後日も、また会おうって約束したのに。折角仲良くなれたのに。
あの人が……好きなのに。
私は家を飛び出していた。夕闇に包まれた田舎町を、ひたすら走る。息は切れるし足はもつれるが、必死に公園を目指していた。
公園についても、もちろん人影もない。
あの人に伝えなきゃ。でなきゃ、私を待っているかもしれない。
お家まで行こうか。
そう考えたとき、私は失笑した。目からぽろりと、雫が落ちて頬を濡らす。
「名前も知らないんだ……」
彼と仲良くなったつもりでいて、好きになったと思っていて、でも私は名前すら知らないのだ。
彼のこと、何も知らない。
途方に暮れた私は、静かにお婆ちゃん家に戻ってきていた。
「香苗!」
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