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「歩。あんた口は堅いか」 私がいつものようにカフェのカウンターの隅に腰掛けて教科書を繰っていると、マスターが寄ってきて私の前に肘をつきました。 「何故です?」 「秘密が守れるか?母さんや友達、誰にも黙っていられるか」 私は迷わず頷きました。秘密という言葉に、齢四十を超えるマスターに同等に大人扱いされたような心持ちがして嬉しかったのです。 マスターは私に紙片を押し付け、今晩十時にここへ行って俺の名前を言え、それ以上は何も聞くなと言いました。絶対に無駄にはならないからと。十時。とんでもない時刻です。下宿の門限が七時でしたから、十時前に部屋を抜け出すだけでも私には冒険でした。しかも手渡された住所は山の手も山の手、華族や軍部の高官、商家の私邸が立ち並ぶ高級住宅街です。私はあまりの展開に果たして生きて帰れるだろうかとまで思い詰め、しかしマスターの人柄を信用しきっていたので、その晩、何度も心臓を着物の上から押さえながら渡された住所に赴きました。まだ珍しかった煉瓦の高い高い塀に囲まれたその豪邸の通用口をノックすると、若い男の声で用向きを尋ねられたのでマスターの名を告げました。
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