その別離はまだ遠く

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 ただ僕のとても親しかった人の苗字だけがある。  その石の底に眠る人で、僕が知っているのは一人だけだ。  その人は、ずっとずっと前に此処に入って、ずっとずっと此処にいる。  僕は、友達だったその人が、僕の前からいなくなった日に毎年ここを訪れている。  僕の幼馴染みだったその人には、今日という日に訪れる人間が僕しかいないのかも知れない。供え物も花も僕が持ち込んだものしかない。  しかし、それも当然かも知れない。と、そう思う。僕の幼馴染みが此処に来たのはずっとずっと前で、その両親も、友達だった人たちも忘れはしなくても、自分の時間を擦り減らしてまで訪れることはなくなったようだ。  僕は指を温めるように、両手をすり合わせて揉みほぐす。ただ手を合わせたりはしない。  しばらくそうしていると、少しだけ指が動くようになった。  御影石の上に雪がつもってきた事を知り、僕はそれをコートの袖で拭く。大学を卒業して、自分の給料で買った最初の一品だが、最近は少しくたびれてきていたコートだ。  くたびれた生地は僕が成人して少しの年月、男物のコートは幼馴染みが他界してかなりの星霜を重ねた事を伝えている。  僕はもう自分の給料だけで食べていけるようになって、欲しいものだってそれなりに買えるような生活をしている。友達は元より少ないけど、それなりに充実しているのかもしれない。 「そろそろ帰らないと、な」  僕は時計を見てそう呟く。明日は仕事だ。今日は無理を言って帰郷したけど、来年も来れるかは分からない。  そもそも十回忌をすぎたのだから、毎年のように帰郷してまで、寒々しい墓前を参る必要などない。それでも訪れるのは、まだ心が残っているからだろう。  だけど、まだ僕はここに居たいという気持ちがあった。 「ねーねー」  まだ別離(わかれ)の言葉も、まだ告げていない。いままで御影石の前で何度も告げようと思い、でも告げられないでいる言葉は喉の奥で引っ掛かっている。
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