序章

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* かつて自分が生まれ育った故郷を、現は覚えている。 そこは桃源郷であった。幾重もの山々に囲まれた秘境の地は、一年中春の風が吹き、草花が咲き乱れ木の実や果物が生った。 カムチーの一族は、人間ではあったが、普通の人間とは違った。カムチーとは、神の子という意味である。山の木々や動物と心が通じ合っていて、会話することもできた。 そのため森を焼き岩を壊す者などおらず、ずっと自然の恩恵を受け穏便な暮らしをしてきたのである。 優しかった母のことも少しだけ覚えている。 母は竈に向かっていつも食事を作っていた。それか野に出て花を摘んでは編み上げ、胸飾りを作って少女のように喜んでいた。 母が幸せそうに笑う姿や、花を胸に抱いて帰ってくる姿を見るのが現は好きだった。 母は夜になると、藤づるの家の奥でひっそりと泣いていた。 なぜ泣いているかは、当時幼かった現にもおおかた推量はついていた。亡き夫、現の父を思って泣いているのである。 現はそれが悲しかった。涙を流して天に懇願する母を抱きしめてあやすことしかできなかった。 現は父を知らない。生まれる前に死んでしまったからである。 その点では母は、愛する夫がいない分ひとり息子の現に惜しみなく愛情を注いでいたと思う。
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