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トントントン。
一口台にじゃが芋を切って、ボールの中の水へ。
手早いとは言い難いが丁寧な仕事で日向子はシンプルな作業を進めていた。
万楼は水洗いした人参を眺めながら、
「……キャロットのジュレにしたいなぁ」
などと呟いている。
「だめです」
「やっぱり?」
ロフト付き1DKの万楼の部屋は、異常なほど生活感がない。
キッチン周辺の設備は、非常に充実している(主に製菓用の調理器具であるが)ものの、それ以外は必要最低限の簡素なモノトーンのインテリアや、必要最低限の家電製品がぽつぽつと置かれている。
ベースや機材がまとめてある一角がなければ、ここに住む人間がどんな人間かを知る手掛りは何一つなかっただろう。
日向子は万楼が口にした「代役」という言葉を思い返していた。
「代役」という役割。
それは終わりを約束された役割。
日向子は、この部屋が万楼にとって「一時滞在」のための仮の宿に過ぎないのだと悟った。
「万楼様は……いつか、heliodorのベースを辞めてしまわれるのですか?」
「うん」
しゃり、しゃり、と万楼の動かすピーラーの刃先からオレンジ色のリボンが垂れる。
「お姉さんも知ってるよね? heliodorには粋さんっていうベーシストがいるんだよ」
「……存じてますわ」
「今は色々あってここにいないけど、みんないつか粋さんが帰ってくるって信じてる。粋さんが必要なんだよ」
「そんな……」
日向子は包丁を一度止めて万楼を見た。
万楼の表情はいつもと変わらない。とても静かで、柔らかい笑みを浮かべている。
「玄鳥がボクをみんなに紹介してくれた時、玄鳥以外の全員がボクの加入に最初反対したよ。
それは技術的に未熟だったからという理由じゃない。……ボクを代役にするのがしのびなかったからだ」
一度呼吸をおいて、万楼は続けた。
「ボクのベースは粋さんと似過ぎていたから。粋さんよりはずっと下手だけど。
……意識して似せたわけじゃないよ。ボクは粋さんのベースを聞いたこともない筈……だと思ってたから」
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