《第1章 人魚の足跡 -missing-【3】》

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「どういう、ことでしょうか?」 「……手が止まってるよ、お姉さん」 「あ、そうでしたわ……ごめんなさい」  日向子は慌てて、鮮やかな赤いパプリカを手にとって、包丁を握り直した。  万楼は日向子が作業を再開するのを見てから、また話し始めた。 「……ボクが高校進学と同時に日本に来たっていう話はしたね。 それからボクは高松の静かな街で暮らしてた。 ベースを始めたのは多分その頃で、heliodorを知ったのも多分その頃」 「……多分、ですか?」 「覚えて、ないんだ」 「……え?」 「ボクはある日、海に落ちた。運良く大した怪我もなく救助された。 ……だけど目覚めたボクは忘れてしまった。高校生活の大半の記憶がごっそり抜け落ちてしまったんだ」  はらり、と色鮮やかなリボンがザルの上に落ちる。  万楼はザルに溜ったそれを、生ゴミのバケツへとバサッと葬った。 「覚えていることといえば……ボクは、多分誰かと一緒に暮らしていた。 ベースを教えてくれたのはその人で、ボクにheliodorというバンドを訪ねるように言ったんだ……そしてボクはその人を《万楼》って呼んでた。 ……《万楼》ってね、粋さんが昔飼ってた熱帯魚の名前なんだって」  かつてのベーシストとよく似た音を奏でるベーシスト。  そして、偶然にしては出来すぎた一致。 「《万楼》は粋さんなのかもしれない」  具材を軽く炒めて、たっぷりの水で茹でる。  灰汁を取り除きながら時間をかけて。  その間、恐らく雑誌の記事としては使えないであろう万楼の話はゆっくりと続けられた。
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