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「……伯爵様……」
重い瞼を開けた。
「……夢……?」
そう、それは夢だった。
けれど。
目が覚めた後も、あのメロディは確かに日向子の耳に届いていた。
「……ピアノ……」
日向子の視界には、毎日挨拶をする伯爵の肖像がある。
ここは間違いなく自宅のピアノ室らしかった。
誰かが日向子のピアノを弾いているのだ。
日向子はその音色を奏でる者を確かめるべく、身体を預けていたソファからゆっくり上体を起こす。
グランドピアノの前に座る人物の、オレンジ色の髪を見た瞬間、日向子は息を呑んだ。
「ぜ、蝉様……!?」
演奏が、止まる。
「おはよん♪ 日向子ちゃん」
蝉はにっこり笑う。
「びっくりした?」
「び、びっくり致しました……」
「遊びに来たんだけど、迷惑だったかな?」
日向子は寝起きということも手伝って、ゆっくりとパニック状態に陥ろうとしていた。
「あ、あの……雪乃は……」
「雪乃さんって、あのクールでかっこいい人? その人がおれを部屋に入れてくれたんだケドさ、急用があるとかで出掛けちゃったんだよねー」
「まあ、そうでしたの……」
よく考えてみればあの雪乃に限って、よく知らない男を日向子の自宅に上げて、あまつさえ二人きりにしていなくなることなどありえないのだが、今の日向子は気付く余裕がない。
「今の曲……mont suchtの『月影逢瀬』……わたくしの好きな曲ですわ」
「マジで? そりゃちょうどよかったなぁ」
「……ありがとうございます。おかげ様で、良い夢が見られたような気が致しますわ」
「……そっか」
蝉はどこか満足そうに呟いて、立ち上がった。
「ホントはさ、話そうと思って来たんだよね」
「え……?」
「まあ、日向子ちゃんが聞きたければ話すし、聞きたくなければ話さないつもりだケド」
蝉は日向子が上体を起こしたことで生まれた、ソファのスペースに腰を下ろした。
「あいつのコト、まだ知りたいって思う?」
「あいつ……と申しますと……」
「日向子ちゃんを泣かせたバカのコト」
「……有砂様の……」
蝉はじっと日向子を見つめて、待つ。
日向子はその視線を受け止めて、そして、答えた。
「まだあきらめるわけには参りません……わ」
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