カナリア 1

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 静かに降る雨、広場の真ん中の街灯が、琥珀色に滲む。  そこに、女の人が、凭れるように、立っていた。   こくん。  胸の奥、何かが響く。  僕は、ゆっくりと、歩みよった。  その人は、小さな声で歌っていた。  ラ・ヴィアン・ローズ。  その人は、裸足だった。  小さな白い甲が、雨に打たれていた。  その人の、少年のように短い髪も、伏せた長い睫毛も、雨の雫に濡れていた。 「こんばんは」  僕がそう声を掛けると、歌声がやむ。そうして、夢を見ているような大きな瞳が、僕を見つめ返した。だが返事はなく、また、小さな歌声が続く。 「風邪をひきますよ」  僕の言葉に、答えはもらえない。 「裸足ですよ」  そう言うと、やっと微笑が返ってくる。 「私は捨て猫、道端で、凍えて死ぬの」  澄んだ声。僕にもし、尻尾があるとしたら、びりびりと震えている。 「…家の人を呼びましょうか?」  僕のおせっかいがまだ続く。すると、今度は少し怖い顔をして、 「捨て猫なの」  そう言い放たれた。  微かに匂う、酒精。あぁ、酔っているのか。 「珈琲でも、いかがですか」  些か困って僕が言うと、その人はやっと歌うのを止めた。 「お金がないの」  少し哀しそうに彼女が言う。  それが嘘でも、本当でも、お金を貰う気は、僕にはなかった。  店の扉を開けると、その人はすんなりと入ってくる。  手近の椅子に、ぽてりと腰掛けた。    石窯の火も落としたし、サイフォンも洗ってしまった。  珈琲ケトルをガス台にかけ、お湯を沸かし、祖父が嫌う電子レンジで、今日の残り物、ほうれん草とベーコンのキッシュを温める。  珈琲は、二杯。  トレーにマグカップにいれた珈琲と、キッシュの皿を載せ、僕は彼女の前に差し出す。  脇目も振らず食事をする人の姿を、久しぶりに見た。  猫なら、にゃぐにゃぐといいながら、食べている感じだ。  キッシュを三口で平らげ、珈琲で流し込み、そうして、ぱたりと卓にうつ伏せると、その人は、寝てしまった。 「嘘でしょう…?」  そっと近づき、肩を揺すってみたが、起きる気配はなかった。  祖父のベッドにあった毛布をその人にかけ、足元にスリッパを置く。  店の鍵は、かけないでいた。  帰る場所を思い出せば、きっと出ていくだろう。  そう、思っていた…。
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