カナリア 1

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 僕の一日は、意外に忙しい。  朝四時、まずその日に出すパンを焼く準備に取り掛かる。  店で出すパンやメニューのレシピは、みな、亡くなった祖母のものだ。  祖父は口うるさくレシピをいじるな、と言うが、自分は、珈琲と酒の準備以外、絶対に手を出さない。  店の昼休み、「病院の食事が美味くない」と駄々をこねるので、ランチの残りを持って行った。  もう一つ、一応の店主に確認しておくことがある。  昨晩、店に迷い込んだ「捨て猫」は、まだ、朝になっても居着いていた。  昨日とは打って変わった調子で、はきはきとした人になっていた。 「ご迷惑をおかけしました」  にこやかに微笑む。昨日の、琥珀色の影は、いづこへ? 同じ、人ですか?  僕は、困惑しつつ、パン生地を捏ね、珈琲豆の焙煎の支度をする。 そんなフル稼働の僕に、彼女は言った。 「忙しそうですね」 「忙しいのです」  後暫くすれば、額縁屋のオヤジが、朝の一杯をやりにくる。 「お手伝いさせてください」  僕は、暫し、絶句した。 「サードよ、手一杯なら雇っていいぞ」  チキンポットパイを食べながら、祖父は聞く。僕は、作り付け机に張ってある、写真が気になった。  看護師さん達との、楽しそうな写真。 「早く元気になってください、アーネストさん」  写真には、そう添えてある。 「ここでも、アーネストさんですか」  僕が言うと、ヘミングウエィ好きで、実際よく似せている祖父は、男臭く笑う。この笑顔は、真似できない。 「では、手伝って頂きます…」  出会った経緯は、面倒なので、説明しなかった。  どうせ、からかわれるだけだろうし…。  彼女が渡してくれた、免許証の写しを祖父にみせた。 「彼女の名前は、ミミにしよう」  彼はそう言って、一人頷いている。  この人は、呼び名をつけるのが、大好きだ。
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