三の巻

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三の巻

羚泉帝、薗侑帝は中宮・藤原唱子(父を左大臣に持つ)、先に同じ藤原一門の女御が生んだ一の宮の皇子を差し置いて、唱子の生んだ、二ノ宮の皇子と三の宮の皇子の二人の血統から交互に東宮が出されるはずだった。 羚泉院には三人の皇子がおり、一の宮が東宮となり、のちの樺讃院帝であり、薗侑帝の世が、しばし続くと思われた。 だが薗侑帝は、自分の思いとは別に、争いなく東宮を生む女御を選びだした。 異母姉の皇女を母に持つ藤原興子に矢を立てた。期待に添って、女御の興子は一の皇子を生んだ。これが後の常磐帝となる以来、帝のお渡りは途絶え、皇子一歳になるのを見届けると、東宮に譲位してしまう。 樺讃帝となった羚泉院の一の皇子は御年18歳、更衣との間に皇女華子がいた。 女御の中には、藤原一族の姫が連ねて皇子の誕生を待ちかねていた。 紅葉殿の更衣・瀞子は、母は羚泉、薗侑の姉皇女、父も右大臣と家柄も身分も問題なく入待(輿入れ)した。一の妃として寵愛を受け一の宮皇女、華子を生んだ。しかし入待した折、後ろ盾となる両親はすでに亡く、一度は入待を諦めたが、東宮の希望により入待した。しかし、更衣に甘んじることに瀞子は屈辱であり自分より身分が下である女たちが帝の寵愛を受け女御になっていく様を苦々しく見ていた。 さらに次の東宮となるはずの薗侑院の皇子は、まだ幼子、そのため、羚泉院の二の皇子が東宮となることとなった。後の崇司帝となる。当然のように藤原家の娘が入待している。 薗侑院の女御、興子の異母妹である藤原唯子(すいし)が一の宮、椰子(やこ)皇女を生んでいた。突然の東宮継承に戸惑うも、後宮は、にぎやかになり、おとなしいだけの従順な唯子は、後ろ盾の父が亡くなっており、母の身分は低いこともあり訪問者もなく、姫の成長だけが明るさであった。女御とも更衣にすらなれず内待にとどまい、帝のお渡りも忘れられていく最初は姫・椰子だけだったので様子を見に訪れるも、寵姫の女御が二ノ宮に皇子を生み、晴仁親王となり、東宮の喜びはひとしおであろう。 唯子とて、父が生きていてさえいれば、跡目をついだ異母兄が後ろ盾になってくれていれば、女御になれただろう。 帝のお召しで皇子を産むことだってできただろうと一人胸を痛めていた。
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