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「謝るな」
言われて、靴磨きは慌てて口を閉ざした。つい手に力が入ってしまい、さらに慌てる。冷や汗が滲む。
男は顎に手をあて、俯いている靴磨きの顔をじっと見つめていた。
「ん、なるほど。靴磨きと言えど年頃の娘だからな。悩みの一つや二つくらいあって当然か」
「い、いえ、そういうわけでは」
「よし、俺が相談に乗ってやろう。遠慮はするなよ。俺には、多くの人間がそうであるように、妻子を持っている。少し早い反抗期を迎えた息子がいるからな、相談には慣れているのだ」
そう言うと男は靴磨きの肩に手を添え、顔を上げさせた。髭をしっかり剃った、どちらかと言えば爽やかな顔つきだった。
靴磨きは戸惑う。人間のように扱ってもらえるなんて、一体いつ以来だったろうか。
父がいたら、こんな感じなのかもしれない。
再び、目を靴に向ける。重い靴だ。
「あ……家族、いるんですか」
「ん? ああ、いるぞ。俺の妻は大層綺麗だ。自慢の妻だぞ。同僚に写真を見せると、必ず羨ましがるんだ」
男は誇らしげに笑った。その表情は兵士の服と妙に合っていて、勝利を予感しているようだった。
幸せな人間には、幸せな顔が似合っている。
靴磨きは羨った。そうやって、無邪気に笑えるほどのものを持っているのが。
「しかし、羨ましがられるから自慢だと言うわけじゃないぞ。ふふ、ふふふ。どうだ、妻の話をしてやろうか」
ん? と男は靴磨きの顔を覗き込むようにして訊く。ここで断れば、相手の階級にもよるが、靴磨きなどは簡単に刑罰を課せられてしまうだろう。
靴磨きは頷くしかなかった。
「そうかそうか。そんなに聞きたいか。仕方がないな、靴を磨きながらでも聞いていてくれ。俺は話そう。存分に話そう」
男は空を見上げて心ごと過去に遡り、ゆっくりと語った。靴を磨くには十分過ぎるほどの時間だった。
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