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空には満月、飾りに星と薄い雲。セーヌ川から少し離れた場所に位置する少し古めのこのホテル。
赤いカーペットは所々擦り切れ、金の装飾がついたライトにはホコリが被っていた。開けない扉のドアノブには、小さな蜘蛛の巣まである。
コンコンと切れの良いノック音、それは入り口の狭い廊下からロビーにかけて余韻を楽しむように反響した。ロビーのように見えなくもない、入ってすぐの大部屋に居る紳士的な口髭を蓄えた初老人は、やれやれと言ったため息と共にスッと椅子から立ち上がる。部屋の明かりに目や口元の皺が照らされた。
彼は口髭をサッサと指先で梳きながら入り口へ向かい、フローリングを軋ませながら廊下を歩いて行く。
「・・・こんな時間にどちらかな?」
『呼んでおいてそれはないんじゃないか?』
「あぁ!デューカスか。すまんすまん、すっかり忘れていたよ」
『ヴィオレだ』
「まぁ良いじゃないか。ほれ、私より若いのだから自分で扉は開けなさい」
デューカスとは家名である。老人は名を姓で呼ぶ古風な人間だった。そして若い彼、デューカスは・・・。っと、この呼び方はあまり良くないか。実は社員のほとんどはこの呼び方が嫌いらしい。
重そうな扉が開くと、夜風が廊下に漂う古い空気を圧しながら駆け抜けていく。口髭を撫でながら微笑む老人の視線の先には若い男性。老人とは頭一つ分ほど違うが、一般で見れば普通の背丈だ。歳の差は子と孫の中間と言った辺りか。しかし老人と言ってもまだ初老なので、本人には言わない方が良い。
「相変わらず客に対して冷たいな」
「君は客であり社員だからね」
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