ネタ

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頼まれてもいない酒と、酒以外何も入っていない冷蔵庫を見ての夕飯の買い出し。"アイツ"が好む酒の種類は、不本意にも付き合う上で覚えてしまった。 綾士に付き添い従って出来た妙な絆。 1DKのあの部屋に、今日も『帰る』俺がいる。 元はと言えば、あの雨の日。俺が今まで通りに生きていたなら、決して交わらなかっただろう道。 綾士を守ること、綾士の当主襲名を見守ること、それが使命として、そして俺の人生として。 造られた、俺。 常に屈し、従順で居なければならなかった俺が、酒の弾みとはいえ、売られた喧嘩を買うなんざ…只の馬鹿としか言い様が無いんだが。 知らない世界を、見た気がした。 それは、俺が踏み込んで良い世界なのか、それとも踏み込まない方が良い世界なのか。 解らない。解らないけれど。 まるで、居心地の良い世界。 …――汚れきった俺には、酷く眩しい場所。 「――…」 鍵は開いている。躊躇いもなく扉を開けば、中には電気が灯って居るのが見えた。静か過ぎる空間。 「…香尋?」 唯一その部屋に存在しているだろう人物の名前を呟くも、返ってこない返事に些か疑問を持ちながら足を踏み入れて…やっと目の当たりにした。 ソファで器用に眠る人影。所々オレンジが眩しい髪、酒の瓶が空かぬうちに寝入ったのだろう、寝顔は無害そのものだ。キッチン側にレジ袋を置いて近づいてみれば、思った以上に幼いながらも精悍な顔つきであることに気付く。 静かに寝顔を眺めて、思わず唇に笑みを浮かべた。珍しいこともあるものだ。しかし穏やかな寝顔に、一瞬虚しい気持ちに襲われて息を飲む。 額に掛かる髪に指先だけで触れ…直ぐに離そうとした。だが、恐らく寝惚けているのだろう、香尋の片手が重なる。 心臓が跳ねた。それが段々と緩やかな速さを持つ。 いとおしいという気持ちは、知らない。 でも、胸が苦しい。 自分の知らない世界に生きる目の前の相手を、自分が繋ぎ止める訳には、いかないのだ。 重なった掌を引き寄せて、指にくちづける。祈りにも似た仕草、苦笑を溢してゆっくりと元通りに戻す。 いつか香尋に、"さよなら"を告げる日は来るだろうか。 未だ見ぬ未来に、俺は唇を噛み締めた。
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