合戦編:関ヶ原

2/2
前へ
/7ページ
次へ
セキガハラ 関ヶ原…関ヶ原の戦い。 このくらいはミンナ知ってるにょろ? めがっさ有名だからね~。 小学校で習うからね♪ 一応説明しておくと、 慶長5(西暦1600)年9月15日、石田三成を筆頭とする西軍8万強と徳川家康を総大将とする東軍約7万が美濃(岐阜県)関ヶ原で激突した… ってのが関ヶ原の戦いさ! 著者的見解 一般的に豊臣対徳川の合戦と思われがちであるが、形式としては、豊臣家大老の権威を傘に着て天下簒奪を目論む家康を除こうとする三成と、あくまで天下盗りの野心は隠し、豊臣家のために逆臣である三成を討つと言う家康の、あくまで豊臣政権下での家臣同士の争いというのが正しい位置付けであろう。 (結果論的な合戦の意義としては、豊臣から徳川に天下の実権が移った合戦であり、家康の本心はそこにあったと思われる) そのため、豊臣最恩顧の福島正則・池田輝政らは三成憎さから皮肉にも“豊臣家を守るため”家康に加担している。 ちなみに、一応形だけの数・格好で豊臣軍も参戦はしているが当主・豊臣秀頼の不参陣などから西軍は三成の私軍とされた。 また、よく勘違いされているが西軍の総大将は石田三成ではない。 250万石を超える家康の力に対抗するには20万石に満たない三成では心もとなく、中国10カ国120万石の太守である毛利輝元が大坂城に入城し西軍の総大将となったのである。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5人が本棚に入れています
本棚に追加