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雨風から隔離された光の差さぬねぐらの中で彼は一人微睡む。
夢の中にいるのか、それとも覚醒しているのか、それすら定かではない長い長い暗闇。
ただ手元にある木の根にしがみ付き、何にも邪魔される事の無い静寂をひたすらに味わう。
頭の方からじんわりと伝わる熱が、春の訪れを告げる。一体、一体今は幾度目の春だっただろう。
腹を満たす樹液は驚くほど甘みを増し地上が鮮やかな色彩に包まれてゆくのが手に取るように分かる。
冬の間、土中で寒さに凍えていた種子達が俄かに活力を取り戻し小虫達も意気揚々と心地よい春風の中を飛び回る。記憶に刻み込まれた色鮮やかな映像を奔放に躍らせながらも、彼はまだ地上に上る事は出来ない。
未だ、未だ。外界から隔絶されたこのねぐらの中で唯一の標となるこの木の根を上り、むせ返るような暑さと湿気の中殻を脱ぎ捨て、まだ知らぬ大空を飛びまわるには、未だ。
生まれて初めての、狂い悶える様な焦がれる気持ち。何時まで籠っていればいいのだろう。土を掘り進む荒くれ者たちの襲撃に怯え、ただひたすらに大樹の根に寄り添って耐える。
美しく躍動する生命の渦から取り残されたような惨めな気持ち。
「ああ願わくば、一刻も早く、命の鼓動が聞こえる地上に。」
声が聞こえる。
「成程聞き入れた。ただ私に、その身を任せていればよい。」
堅い殻に包まれた己の内側が、少しづつ真っ白な塊になってゆくのを感じる。土に伝わる大気が緩やかに温かさを増していくと同時に、己が失われてゆく。
真っ白な菌糸に食いつくされた彼の体は最早食いものを必要としない。彼の意識はセミタケと同化して、真っ直ぐに地上を目指した。
土の中から顔を出した彼らは、その緑の豊かな事に驚いた。色彩が失われた暗黒の土中に比べれば、そこは正に別世界。
「もう僕は羽ばたく事は出来ない。」
「そうだね、でも僕は後悔していない。」
「ああ、一足お先にこんなに美しい景色を見る事が出来た。」
他の如何なる同類よりも静かで、そしておぞましくも美しい。春の森の片隅に「芽生えた」セミが、澄んだ空気を身にまとった。
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