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「さてと、僕はそろそろ行かなくちゃ」
膝をパンッと強く叩き、無名が立ち上がる。
「お別れだね。ダイスケ君」
「うん」
「楽しかったよ」
無名がニコリと笑った。見ているこっちも幸せになる笑顔だった。
無名はさよならも言わずベンチから離れ……そして、戻ってきた。
無名がしゃがむ。ダイスケの手を取る。自分より目線が下になった。
「これは、覚えていたらでいい」
握られた手が温かかった。人肌って温かいんだと久し振りに感じた。
「もしダイスケ君が今の気持ちを忘れないでいたのなら、将来君は“落ちる”だろう」
無名の言葉に交じって、電子音が強くなっていく。
五月蠅い。なんだか不機嫌になってきた。顔には出さなかったが。
「そのとき、君は最下荘という場所を訪ねてごらん。
そこには君と同じ考えを持った人がいるから」
「サイカソウ?」
繰り返す。子どもながら、それが重要な言葉の気がした。
「そうだ。ダイスケ君が大人になって、それでもまだ今の気持ちを持っていたら、そこに行くんだ」
「行ったら、どうなるの? 変われるの?」
「……教えられない。
でも、“止どまれる”」
無名の声が聞き取りにくい。この電子音のせいだ。
目覚ましみたいな音。それに気を取られて集中出来ない。
「人が人になる前で、まだ鳥に成れる道の前で立ち止まることが出来る。
人か鳥か、その分岐点で立ち止まれる。
立ち止まる分、他人とは距離が出来るし奇異の目で見られるだろうけど……。
それを乗り越える自信があるなら、最下荘に行きな」
「わかった」
「…………」
頷いたのに、なぜか無名は悲しい目をいていた。不思議に思ったが、訊いても答えてくれないに違いない。
サイカソウ。その音は、深く心に刻まれた。
「さよなら」
「バイバイ。無名おじさん」
電子音が、さらに強くなった。
耳元で鳴っているようだった。
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