序章

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「愚かなる勇者よ」 響く雷鳴のように鋭く、鋭利な氷柱のように冷たい声に、一片の慈悲も存在し得ない。 自分に歯向かう蟻達に、命という名の代償を払わさせずに帰してくれる様な者が、魔王などと呼称されるはずがない。 魔王は座したまま立ち上がる事なく、その宙に浮く巨大な一枚岩の様な掌を勇者の頭上にかざした。 「脆弱なる存在でこの我に挑んだ事を、闇の深淵で後悔するがいい」 そう魔王が勇者に告げた直後、勇者達の足元にこの世の全ての闇を濃縮しても尚足りない程の深く、重く、冷たい漆黒の闇の泉を作り出す。 その闇は実体を持たず、触れる事は叶わない。それでいて触れた物を強欲に喰らい尽くすという、その全てが矛盾している。故に為す術が無い。 貪欲な闇はその永遠に満たされる事の無い欲望を満たそうと、勇者達の体に蛭の様に纏わり付く。 その闇に触れられたら最後、勇者は足掻き一つ見せずその闇の中へと沈んでゆく。 間を置かず、今度は周りで地に臥していた彼の仲間達へも同様に襲い掛かり彼らもまた微動だにしないまま泉へと呑まれ、その姿を消却した。 彼らが完全に姿を消した後も泉はその貪欲の赴くままに獲物を探して、まるで本当に意思でも持っているかのように僅かな蠢きを見せる。が、やがて興味を唆る者が無いと分かるや否や、物音一つ立てず、水が染み込む様に冷たき石畳へと消えた。 相手の戦術を読み込む熱い駆け引きも無く、仲間の危機に勇者の内に眠る秘めたる力が覚醒するわけでもない。 それどころか、虚しく時を刻む時計の秒針が、再び頂の盤面を指しただろうか。 点と点を線で結ぶだけの如く、世界を賭けた勇者と魔王の決戦は、あまりにも簡略的にその幕を降ろされた。 勇者達が消えた後には、闇が興味を持たずに呑み込まれなかったのであろう。魔王の一撃で粉々に砕かれて吹き飛ばされた、薄汚れる程に神々しい装飾が施された神剣や、虚構の猛りを見せる獅子の紋様の刻まれた荘厳な聖盾が点々と転がるのみである。 だが、辛うじて残っていたそれらの武具でさえ、勇者がこの世に生きていた痕跡を跡形も無く消し去るかの様に、腕の一振りで砂細工よろしく脆く霧散する。 遥か昔、この世界を闇の底へと落とし、世界をその手中に収めた魔王。 その力は、人間が立ち向かうにはあまりにも強大過ぎた。
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