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「苦しみから解放される手段として絶対的なオプションは二つだ。死か解脱…絶対的なものはその二つだ」 酒場で隣の席に座っている男は僕にそう述べた。 酷く古臭い酒場だ。ワイン樽が床に整然と配置されていて、その樽にはフランス語で何か書かれている。勿論僕はフランス語に精通はしていないから何が書かれているかはわからない。それでも文の形態からフランス語だというのはわかる。 壁やカウンターも殆どが木造で、革命期のフランス城下街を連想させる。店内にはジャズとクラシックが交互に流れて、古臭さを必死で鼓舞している。 「やけに仏教的だね。ここはインド料理屋じゃないんだよ」 「場所は関係ない。普遍の真理なんだよ」 彼はそう言って赤ワインを口に流し込む。今年の赤ワインは出来が悪く、酸味が強い割に甘味は弱い。 僕はビールを飲む。アメリカの西部地方で愛飲されている酷く臭いビールだ。腐った卵にオリーブオイルを混ぜたような異臭がする。その臭さは忌み嫌うべきものだが、一旦慣れるととても心地がよい。 「苦しみはないのか?」 彼はきいてくる。 「ない人間なんていないさ。苦しみと僕らは実は依存しているのだから」 「……というと?」 「僕らは苦しみを打破することを糧にして生きているという事さ。だってそうだろう? 欲望ある所に苦しみはある。なら勉学も運動も交遊も恋愛も……、その全ては苦しみの原因だよ。ならばそこに敢えて足を踏み入れる意味もない。なのに皆足を踏み入れる。それは自らに課題を与えそれを克服するためなんだよ。つまるところ、自ら苦しまないと人生が退屈過ぎるのさ」 そう言って僕は臭いビールを喉に流し込む。神経が刺激され、胃まで到着したことが脳に伝わってくる。 男は赤ワインで少し彩られた前歯を見せて笑っていた。声は出ていない。顔だけが笑っていることがわかる。 「それは自ら苦しみを選ぶ、というよりは惰性に近い。皆、恋愛や交遊、勉学や運動以外のオプションを知らないだけさ。だから慣習に従って堕落して生きている」 彼はそう言って赤ワインを一気に飲み干す。先程までグラスの中でゆらゆらと揺れていた赤色の液体は僕の両目ではもう認識できない。空になったグラスは淋しそうに薄暗い天井を見上げていた。
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