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春はまだ遠い———
ちらほらと片雪が降りてきて、いたずらのようにあたりを白くする。
雪を漕ぐようにして続く点々とした足跡の他は、視野のかぎり銀世界だった。
澱粉を踏んだかのような音を立てて雪駄で地面を踏み締める。
暫く雪道を進んだ頃、ふと下を見遣ると、足跡の中に八文(20センチ)程の肉球模様を見つけた。
此処は日本三大鬼道の一つ相模辺路。
幽霊や妖怪や神々が通る道では、化け物の足跡など珍しいものではない。たまたま目についただけのこと、そう思いながらも不思議な愛らしさを覚えた。
「雪掻きし、野道を急ぐ、けものあり」
腰を屈め、地面を見つめて句を詠んでいると、前から雪を踏む音がする。
「誰かと思えば、如月のだんなじゃないですか、今日は何用で?」
鼻にかかる声と見知った狸の顔を見て、白い溜息が溢れる。
毛むくじゃらの太った胴体に、これもまた太々しい顔。瞳を囲むような黒い模様と、口元からは鋭い歯が覗いている。人間を真似て羽織りを引っ掛けているようだが、装いを凝らしたところで獣に変わりない。
「なんだ狸か、見ての通り仕事へ向かう途中だよ」
袖から煙管を取り出して火をつけていると、狸は太い尻尾を振ってにやにやと笑う。
「こんな天気だっていうのに精が出るな」
「ひいきの遊郭が一大事だって言うから、仕方なく出てきたのさ」
相模辺路の番人を務める俺は、遊郭の女将から妖退治の依頼を受け、根城にしている村から相模辺路に来た。そうでなければ、こんな雪の日にわざわざ出歩いたりしない。
「お高い女郎遊びとは、色男は違うねぇ」
寒風に晒されてひりひり痛む頬を撫でていると、このこのっ!と肘で小突かれた。
煙管の灰が着物に掛かって、無意識に舌を打つ。
「そうひがむなよ。お前だって団子が売れれば、いくらでも遊べるだろう?」
「俺も今宵の満月で一旗揚げて、女でも買うか」
そう言うと、狸はだらしない体をしゃんと張ってみせた。
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