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眼を覚ますとえもいわれぬ倦怠感が彼の体を包んだ。夢の残滓も無い、唯々長い昏睡の淵から這いあがったような感覚。
まばたきなぞ平時は意識せずとも出来るものだが長い眠りの後ではそれすらも重く、怠い。低反発ゲルに優しく包み込まれた体はどこも痛みを訴えてはいなかったが、ただ麻痺してしまっているだけなのかもしれない。
辛うじて呼吸だけはできている、肺の奥底まで息を吸って細く長く吐き出す。眠りに入る前に口にした最後の煙草の味を思い出す。人の体も旧世代の機械と同じく使っていなければ錆付くものだというのは彼も知っているところだったから、まずカプセル内の限られたスペースで少しずつ体を動かす事にする。
グー、パー、グー、パー、指の関節一つ一つを慎重に動かしながら彼は目の前を覆う暗闇について考えを巡らせる。時間の感覚を置き去りにする長期睡眠から目覚めた彼には、このカプセルに入ったのがほんの数十分前のことに感じられる。体の温度を一定に保つ特殊ゴム皮膜のスーツ以外にこの中に持ち込んだものは無かったから長期睡眠がどれ程の長期だったのかを知る術は無い。もしかすると一世紀以上眠っていたのかもしれないし、たった一週間なのかもしれない。
ただ一つ理解できるのは彼の、そして共に長期睡眠に入った彼の伴侶の生命が危機にさらされている可能性がある、ということだ。この異常な視界の中で目覚める理由など、それ以外に考えられない。
人口太陽の暖かな日差しで目覚められるように、或いまどろみから覚まさせてくれる心優しい知的生命体に笑顔を向けられるように、カプセルから外界の様子が見渡せるように、前面は第八十七階層産の強化ガラスで出来ている。彼が眼を覚ます時そこには目覚めの喜びが無ければならない。それなのに長い眠りから覚めてそこに見えるものが暗闇だけとは、いかにも理不尽ではないか。
さて、この暗闇の原因は一体なんだろう?人口太陽が誤作動を起こした例は彼の知る上下数十階層の三十世代を通じて一度も無い。夜とはいえど、非常時を考えて手元の解る程度の明かりは絶対に残してくれているはずだ。己の感覚が狂ってしまったとも考えづらい、長期睡眠の副作用といえば起床後の倦怠感それだけというのが、あらゆる階層でこの装置が愛用されている理由であるから。
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