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「信長を捕えよ!!それが無理ならば首級(くび)を!!」
間もなく明けようとする清廉な空気を乱すのは、闖入者の凶暴な足音と叫び声…。
獲物を狙う狼と化した彼等が走り回るその中で、朝露に濡れた青草に、まるで無惨に踏みにじられた花の如く、ひっそりと横たわる女人がございました。
彼女は今やぴくりとも動きませぬ。
寺内を荒らす者どもも、すでに彼女が事切れていると思うているのでございましょう。
一向に気にする様子もなく、その傍で足を止める者とてございません。
ここは京の内に広大な敷地を誇る本能寺。
備中で高松城を囲む羽柴秀吉の援軍に赴く為、安土から京へ入っていた右大臣織田信長公の宿所でございます。
そこへ、これも備中へ向かうと見せかけた明智光秀の軍勢が、反旗を翻し押し寄せたのは、天正十年(1582)六月二日未明のこと。
「何を愚図愚図しておる!!右府はまだ見つからぬのか!?」
その言葉が彼女の耳に届いたのでしょうか。
やっとの思いで首だけを回すと、階(きざはし)を登った廻廊の先で、血にまみれ、阿修羅の如く太刀を振るう夫の姿を見つけたのです。
それは、尾張の小大名からついに天下に手をかけた男(おのこ)織田信長。
彼女の口許に、かすかな笑みが宿った時、彼女はふと、自分に向けられた視線に気がつきました。
懸命に目を凝らすと、ぼやけた視界の中、横たわる自分をじっと見下ろす夫が見えました。
彼女の夫は、黙ったまま静かな眼差しを向けておりましたが、やがて、くるりと背を向けると、部屋の障子を開け、その中に消えて行ったのです。
その夫の背中を見逃すまいと、薄れていく意識を必死に保とうと唇を噛み締めた彼女は、障子の向こうで突然炎が燃え上がり、みるまに建物全体を包んでいくのを見ました。
(これで良い…あそこにいたのは、天下人でも右大臣でもない、ただの暴れ者の吉法師…そして妾(わらわ)は、その吉法師の妻…)
彼女の口許に再び笑みが浮かぶと、ようやく安堵したのか、ゆっくりと瞼が閉じられ、再び開かれることはございませんでした。
「信長の首級(くび)は!?」
狼狽の怒号が響き渡る中、その声を嘲笑うかのように、紅蓮の炎は勢いを増し、あっという間に、全てを焼き尽くしてしまいました。
その後、信長公の遺体はついに見つからず、彼の妻がどうなったのかを知る者も、誰もありません。
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