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私が生を受けたのは、昭和58年(1983)3月12日の22時45分にこの世に生まれて来た。
当時母は妊娠中毒だった。
華奢な体だった母は、双子を身籠もっていた。
予定の3ヵ月より早産。
母体の危険もあり、双子の命をとるか、母の命かをとる選択を迫ったという。
私の父は、当然私達双子のの命だった。
母は腹の底で、
“この野郎…”と思ったそうだ。
でも、そう言いながら母は私達双子の命を優先した。
奇跡的に双子の赤ちゃんは生まれたが、超未熟児で。
母も命を取りとめて、
「お母さん!!
女の子の赤ちゃんですよ」
自分の両手に乗りそうな我が子……最初に生まれたのが長女。
母は、“花の様に綺麗で、人に思いやりや癒される様にと”と、最初に生まれた子供に命名したのが
「槍澤(うつぎざわ) 蘭(らん)」
この執筆者である私の事である。
その12分後に次女が生まれた。
“麗しく人に誰でも助けれるようになって欲しい”という考えで、命名したのが
「槍澤 麗(れい)」と付けた。
でもすぐに退院ともいかない。母はしばらくして退院した。
私達は、出て来るのが早かったので、保育器の中で過ごしていた。
この頃から、私は既にある病気を発症していた事に、医師や母、父でさぇ気付かなかった。私達双子は、超未熟児で生まれたせいで、肌が少し黒ずんでいたのいた。
レックリングハウゼン症の特徴であるカフェオレ斑(はん)が見えていなかった。
病気に気付く前に、赤ちゃんの命と母体の命が最優先だったから気付かなかったんだと思う。
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