池畠涼花の件

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その夜。 夕食を半分ほど平らげて二階にあがると、机にむかっていた。 課題もそっちのけに、メモを書き綴る。 1962.3.18河合裕子 それから覚えているかぎりの香織の言葉を箇条書きにすると、引き出しから取り出したクリアファイルに、名刺と一緒にしまった。 「りょうちゃーん、お風呂入ったら?」 階下からママの声が聞こえた。 涼花は答えるでもなく、塞ぐようにヘッドホンをつけた。 お気に入りのバンドの曲が、煩わしさから遮断してくれる。 ばさばさと乱雑に教科書を机に放り、ラジカセの音量をあげた。 ママは好きじゃない。 雪菜に話すといつも「おかしいよ」と言われるけど、物心ついたときにはもう嫌いだった。 それらしい原因はない。 ただそう感じてしまうのだ。 膝に座らされて、見たくもない絵本をめくるたびに、「すごいねぇ」「面白いねぇ」と話し掛けるママと小さいころの自分を思い出す。 幼稚園に入るまえだったと思う。 やたらと大げさな感情表現に、気持ちがどんどん冷めていったのを覚えていた。 課題も半分ほど終えると、ストップボタンを押した。 静けさが耳鳴りとなって、輪響している。 ふいに、ドアがノックされた。 水面に小石を投げ込むように、その音が妙に耳のなかで波紋を広げた。 「涼花、入るよ」 パパの声だ。 「なぁに?」 ドアに貼られたポスターの端が少し破れていた。 ノヴを回す音と共に、扉が静かに開いてゆく。 視界は、段々と遠ざかっていく破れた端っこから、困ったような表情のパパを見上げていた。 「返事ぐらいしないと」 パパはまだネクタイを絞めたままだった。 「またママが泣くぞ?」 だから何だというのだろう。 いつも思う。 涼花の反応に困るたびに、ママはパパに丸投げする。 まともに口をきかないことが一番悪いのだと、分かっているつもりだ。けれど、そのことについてもパパから注意を受けるだけで、ママは何もなかったように振る舞う。 「お風呂に入りなさい」 「うん」 ママが泣いたからと胸が傷んだことはない。 それは自分でも、人としておかしいと感じる。 悩んだ時期もあった。 でも相談を持ちかけるたびに、パパは困ったように笑みを浮かべ「大人になればきっとわかるよ」と、頭を撫でてくれた。 その手は大きくて暖かかった。 涼花は部屋を出ていくパパの背中を見送り、教科書を閉じた。
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