序章

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律子はこの母が苦手であった。 嫌いではない。 母としての責務は完璧に果たしていると言えよう。 衣食住の保証。 惜しみない愛の提供。 何をしているかは分からないが、金銭面で困ったことはないし、様々な事を学び、習得する機会と場所を与えてくれる。 手料理も、共に過ごす休日も、律子に充実と大切なものを教えてくれた。 まさに完璧と呼んで差し支えのない女性。 しかし、それもあくまで“母”としてはの話。 彼女は、人間としてあまりに破綻した性格の持ち主であったのだ。 以前、律子が自分の父親について質問した時、母は事なげにこう答えた。 「さあ?どこかでひっかけた行きずりの男だと思うよ?」 デリカシーの欠片もない一言。 自分は愛し合う二人の結晶ではなく、行きずりの恋の結果ですらないという事実。 それを躊躇う事なく娘に伝える精神。 その他にも、口に出来ないような蛮行を、この母は平気で行う。 居心地が悪いことこの上ない。 更に最悪なのは、その事実を自ら自覚している点にある。 破綻した精神とそれを肯定する認識。 つまりは異端者。 通常ならば軽蔑し、関わる事など決してない。 しかし、この母はやはり母親としては完璧なのだ。 それ故に無下には出来ず、いつも自分は貧乏くじを引く羽目になる。 風原律子は、この母が堪らなく苦手であった。 「はい。準備万端。後はお願い。 何か困ったことがあったらなんでも言ってね」 にこやかに、そう告げながら踵を返す。 かくして、開戦の狼煙は上げられた。 実の娘を死地に追いやり、飄々と去っていく母親。 だが、その背中からは紛れもない我が子への信頼。 「……本当に、やりにくい」 こんな事は大罪だ。 “あんな”下らない事の為に、こんな大それた事件を起こす意味が分からない。 母親の勝手な願いの為に、今夜からこの地は戦場と化す。 だがしかし、「管理者」としてこの戦争を裏から見張る母親が起こしてしまった惨劇ならば、 やはり自分が尻拭いをしなければなるまい。 不快感と共に自らの運命を呪いながら、律子は“召喚”の儀式を開始した。
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