続・かぐやの育成日記

3/3
5人が本棚に入れています
本棚に追加
/12ページ
そんなことはお構いなしに、ピューリタン革命は幕を開けた。 ステュアート朝イングランドは国教会による王の絶対主義によって維持されていたが、富をえて上昇する者と没落する者が錯綜し、社会のしくみが絶対主義の確立されたテューダー朝期とは大きく異なってきていた(ただし、ステュアート朝期における王室と議会の対立の源となった社会矛盾の多くはテューダー朝期に由来している)。そのなかで王室は財政難に苦しみ、チャールズ1世は王権神授説にもとづき議会と対立し、変化に対応する能力を失っていた。内戦はアイルランドのカトリック蜂起(アイルランド同盟戦争の発端、1641年)から始まり、翌年イングランドでも王と議会の対立から内戦がおこった。スコットランドでも主教戦争をへて1644年、盟約派と国王派の間で内戦が始まっている。特にイングランドではピューリタニズムの影響を受けて民衆運動となり、次第に過激化・大規模化していった。国王派と議会派の内戦は議会派の勝利に終わったが、議会派内でも内部対立がおこって国王処刑も行われた。内戦はそれぞれの勝利した陣営によって三つ巴の戦争に発展し、特にアイルランドでは現在も続くアイルランド問題の発端となった。この戦争を制した共和政イングランドも安定せず、大きな軍事的功績をおさめたオリバー・クロムウェルが担ぎ上げられる形で護国卿となった。しかし護国卿政は5年で破綻し、王政復古によって革命は失敗に終わった。かくしてイングランド・スコットランド・アイルランドは王政に復したが、星室庁や独自の財源を失った王権の弱体化は明らかであった。実権を掌握しつつあったイングランド議会は王権神授説や絶対王政を志向する王との溝を深めてゆき、それはやがて名誉革命を招くことになった。 その頃、ビスマルク山田は死んだ。
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!